1 なぜいまシンガポールONEなのか

  ―その背景


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1)シンガポール版NII=IT2000


シンガポールONEは、シンガポール政府が主導する新しい広帯域ネットワーク普及プロジェクトで、インフラ構築、アプリケーションおよびサービスの開発を主要な構成要素とする官民合同のプロジェクトである。

承知のように、シンガポールでは90年代当初から、次世代の情報社会へと移行するための積極的な開発政策を検討され、その結果「IT2000」という国家プロジェクトが推進されてきた。クリントン政権が「NII」を提唱したのに先立つこと1年半、シンガポール政府は1991年8月にはすでに、情報通信の最先端地域の実現をめざし、「インテリジェント・アイランド」をスローガンに、IT2000ビジョンとその実現のためのインフラ構築プログラムとして、 NII(National Information Infrastructure)プロジェクトを立ち上げていた。NTTのVI&P構想にも刺激を受けたというIT2000ビジョンは、 NCB(国家コンピューター庁)が中心になって、官・民各界のリーダーへのヒヤリングを行ない、プロジェクトの全体計画がまとめられたものだった。

IT2000は、当初計画から、電話ネットワークの延長=ディジタル化以上に、コンピューターが中心に位置づけられていた。すべての家庭に「情報家電製品」となったコンピューターが普及し、いまの電話、パソコン、テレビの機能のすべてを統合し、それ以上のものとなって、広範なコミュニケーションと情報・サービスへのアクセスの手段となると明言されていた。そのうえで、次の5つの戦略が打ち出されていた。


1 グローバルなハブの開発
資源に乏しいシンガポールは、金融・流通・運輸交通などの戦略分野でつねにグローバルなネットワークのハブとしてのポジショニングを維持・発展させることが、国家の基本戦略である。情報通信分野でも、周辺諸国を含めグローバルなネットワークへの戦略拠点としての地位を確立することが重要だ。

2 生活の質の改善
労働の効率を高め、雑用から解放されることで、レジャーや家庭生活、市民・社会活動に割く時間が増える。マルチメディアとネットワークを活用した電子決済、ショッピング、美術鑑賞など、生活を楽しみ、その質を高めることができる。

3 経済のエンジンのブースト
経済活動において、情報が決定的な力をもつようになる。生産から販売まで、企業活動のあらゆる面で、情報技術の応用が競争力を大幅に高める。

4 コミュニティを地域とグローバルの両面で結ぶ
インテリジェント・アイランドのビジョンは、国境を越えて、同じような考え方をもつ人々、共通の目的・関心をもつ人びとを電子的に結ぶ。同窓生同士、専門職、孤独な人同士など、個人が自分のコミュニケーションのリンクをもつことができ、世界中の人びととの絆が実現できる。

5 個人の可能性の発展
IT2000の基礎である国家ビジョン「ネクスト・ラップ(次の番)」には、個人の創造性と知識が果たす役割の重要性がうたわれている。語学であれスキルであれ、マルチメディアによって、電子的にインタラクティブな個人の学習が可能になり、いつでもどこからでも、ネットワークを利用した学習活動ができる。視聴覚障害者でもワークステーションで「話す」ことができるなど、障害者こそ能力を拡張できる。

この戦略を支える基盤として構想されたのがNIIだった。NIIは、三つの「C」、すなわち、伝送設備(Conduit)、情報内容(Content)、そして情報処理(Compute)を主要構成要素とし、市民、企業、行政の三者を共通のインフラで結びつけることをめざすプロジェクトとされた。



2)IT2000の「復権」を賭けるシンガポールONE


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IT2000は、92年から93年にかけては、世界的に先進的なプロジェクトとして高く評価され、国際的な評価も高かった。ところが、その後の展開においては、抽象性が高過ぎ、その具体性、実際の成果を疑問視する声が次第に強まった。事実、地元の産業界の間では「IT2000は失敗だった」という意見も強いようだ。

IT2000の具体的なプロジェクトには、挫折に終わったものが多い。具体的なサービス/アプリケーションとしてはも、ビデオ・オンディマンドやオンライン・ショッピングなど一方向型のものばかりが推進され、一般市民は消極的な消費者として情報やサービスの受け手となるという図式が強過ぎることが問題だった。

当初テレビューというビデオテックス・サービスが推進されていたが、パソコン通信やインターネットなど、個人が発信主体になって自由にコミュニケーションする双方向サービスはほとんど無視された。ビデオテックスは、日本や米国などの各国と同様に、ほとんど利用が伸びず、明らかに失敗に終わった。その後継者として、ビデオ・オンディマンドも計画されたが、米国での電話会社やケーブルテレビ会社による「マルチメディア革命」ブームと同様に、結局不発に終わった。

IT2000構想は、90年代の初めにまとめられ、その後爆発的に成長をみせたインターネットは、まったく対象に含まれていなかった。それが結果的にはIT2000を具体的に発展させられなかった最大の要因と考えられる。事実、NCBでは、NIIの具体的なネットワーク・アーキテクチャーとして、インターネットの中枢をなすTCP/IPではなく、OSIを採用する方針だったという。

IT2000への国際的な認知も、当初ほどではなくなった。94年3月、ブエノスアイレスで開かれたITU開発会議で米国のゴア副大統領が「GII」を提唱し、その後95年2月にブラッセルで開催された「GIIサミット」を経て、GIIが国際社会で認知されるようになったのは承知の通りである。しかし、本来ならGIIのトップバッターとしての地位を獲得してもおかしくなかったはずのIT2000だが、GIIの展開において、さして注目されない存在となっていった。インターネットの圧倒的な爆発が、GIIそのものとなっていったのだ。

その後、隣国マレーシアは、1996年からマハティール首相自身が積極的にマルチメディア・スーパー・コリドール(MSC)計画を推進し、国際社会から熱い注目を集め、海外有力企業の関心も集中するようになった。シンガポールは、経済が発達した結果、所得が上がり、土地・人件費を含めたオペレーションコストが高くなり、一種の「閉塞感」が出始め、海外企業のなかにはアジアでの代替地を探す動きも見られるようになっていた。そこにマレーシアから提唱されたMSCは、「マルチメディア権利章典」や「サイバー法」など、国の社会制度の本質を変革する勢いをもつプロジェクトとして新しい、シンガポールを大きく上回る魅力を提示し、一躍世界から注目されるようになった。GIIの潮流を追い風としつつ、MSCはタイやフィリピン、ベトナムなど、周辺のASEAN諸国にも強い影響を与え、それぞれ21世紀への情報化計画を策定するに至った。

こうした動きの結果自国の相対的な優位が脅かされることへの危機感から、MSCへの有力な対抗手段として、IT2000の「復権」を図るための新たなIT2000の中核プロジェクトが、このシンガポールONEである。IT2000の開始当時とは違い、隣国に強力なライバルが出現したことで、シンガポール政府の取組みも一層真剣なものとなったことは否定できない。



3)シンガポールにおけるインターネットの発展


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最初のシンガポールのインターネットは、1990年の後半に、国立シンガポール大学(NUS)の学内ネットであるNUSNETとして登場した。1991年9月、NUSNETは故テイ・エン・スーン国家上級相の勧めもあって、他の大学・研究機関の研究者も利用できる学術研究ネット、TENCNETに改組された。TENCNETは、NSTB(科学技術庁)が資金を出し、NUSのコンピューター・センター内に施設が置かれて運用された。これは、当時のコンピューター・センターのティオ・ホートン所長、テックネットの責任者のトミー・チェン、そしてNSTBのフランシス・ヨーの3人のパイオニアの努力によるところが大きかったという。

こうして研究教育ネットワークとして順調な発展をみせたTECNETだが、商用インターネットの登場は、マレーシアや日本など、アジアの各国よりは相当遅れた。1994年、米国のクリントン・ゴア政権によるNII、そしてGIIのイニシアティブを受け、WWWの世界的な隆盛によるインターネット・ブームを伝える海外メディアの報道の高まりを受け、政府はTASを中心に、シンガポール・テレコムに、インターネット・サービスを開始する命令を出し、まさにトップダウンで商用ネットワークが開始されたのである。

なお、IT2000の主体であるNCBは、この間、インターネットの学校への導入プロジェクトにはかかわったものの、インターネットそのものの推進にはほとんど関与していないことにも留意すべきだろう。

95年5月、4万人の利用者を抱えていたTECNETは、国営企業体センバワン・グループの1社であるセンバワン・メディアに売却されてパシフィック・インターネットとなり、さらにTASは第三のプロバイダーを入札公募し、その結果、それぞれ国営企業であるシンガポール・プレスホールディング社とシンガポール・テクノロジー・グループの1社であるSTコミュニケーションズ社による合弁のサイバーウェイ社が認可を受け、シンガポールのプロバイダーは3社体制となった。

その後政府もインターネット上での情報提供に積極的に取組み、民間でも順調に利用が伸び、現在では利用者数で30万人、すなわち人口の約1割を越えるまで普及している。日本が現在推定利用者が800万人ほどで、人口の7%弱、米国が約10%と見られるから、普及率としては世界でもトップクラスだ。職場や学校はもちろん、家庭のパソコンの普及率も高く、全体としてコンピューター・リテラシー、ネットワーク・リテラシーの高さでは世界でも群を抜く存在となっている。政府機関も、インターネットによる情報提供をはじめ、イントラネットによる内部の利用にも積極的に取り組んでいる。

こうしたシンガポールでのインターネット成長は、まずNSU、NSTBなどの先進的なパイオニアが道を開き、それを海外事情に明るい政府中枢がトップダウンで追認・発展させさらに、インターネットの利用を求める民間の利用者側の動きと合流した結果起きたと見るべきだろう。シングネットが個人ホームページを無料にしたところ、個人の自由な情報発信が盛んに行なわれるようになり、3万人を越える個人利用者が自分のホームページをもつに至ったというのである。マスメディアによる情報発信には厳しい統制が加えられているシンガポールでは、これは特筆すべき現象とさえいえる。

こうして、シンガポールにおけるインターネットの成長は、IT2000を主導していたNCBの手によるものではなく、むしろその外側で起きたことに注目すべきだろう。NCBはむしろ、部分的にはインターネットの発展を支える動きもしたものの、本流はOSIなどの既存国際組織による標準化路線を推進し、インターネットの基本であるTCP/IPの採用には強く反対していたという証言もある。これらの動きが、シンガポールONEの構成にも影響を与えた可能性は高い。



4)シンガポールの統制体質とインターネットとの「文化摩擦」


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シンガポール社会は承知の通り、すべてにわたって国家・行政官庁の主導権が強く、ほとんどの政策はトップダウンで決定、実施される。社会を政府が統制することが当然とされるのである。IT2000にもその色彩が強かったことは否定できない。国と産業界による上からのプッシュが強く、草の根あるいは個人単位で、市民の側から情報を自由に発信するという志向性はあまり感じられなかった。これがインターネットなど、個人が主体となって成長した新しいネットワークの利用形態を軽視ないしは無視する要因ともなった。

シンガポール社会のこうした統制主義的体質は、分散ネットワークを本質とするインターネットがもつ自由で開放的な性質とは整合性が悪く、その結果いくつかの「文化摩擦」が表面化した。

これをもっともよく象徴する事件が、インターネットの世界大会、INETの開催をめぐって1993年に起きた。1993年7月のINET93(プラハ)の際に、INET94はシンガポールで開催されると発表され、準備が進められていた。ところが、準備の具体的な方法をめぐって、INETの主催者であるISOC(Internet Society)とシンガポール政府・当事者側との呼吸がまったく合わず、結局シンガポール開催は11月に急遽キャンセルされ、ハワイに変更されたのである。

原因は複雑に絡まっており、単純にシンガポール側のみの責任に帰することには無理がある。ISOC側がシンガポールの社会的な特性をよく理解していたとは言い難いからだ。しかし、国際会議の開催準備としては異例のキャンセルであり、シンガポールの政府当局者がインターネットを支える文化的な特性を十分理解していなかったことが露呈されたのも事実だった。その後に起きたインターネットの世界的な爆発現象をみれば、シンガポール側がインターネットの戦略的なポジションの重要性を認識し損ない、結果とするIT2000を始めとする情報化普及における先進性を世界にアピールする絶好の機会を逃したということは否定できないだろう。

さらに、シンガポール政府は1996年に、世界で初めて、インターネットの情報内容に対する体系的な規制政策を実施に移した。つまり、国内の情報発信組織については、人種、宗教、政治問題を扱う発信者は、「クラス・ライセンス」という登録制に基づいて政府にあらかじめ登録することを義務づけるとともに、海外からの「有害情報」の流入については、プロバイダーに対してSBAが独自に作成する「禁止サイト一覧」に基づいて、そのアクセスの防止、あるいは有害情報の除去を義務付けたのだった。

この背景には、もともと儒教原理の強い中国人社会がポルノなどの公然流布を嫌うという文化的な体質と、マスメディアによる政府への批判は事実上許さないというシンガポール政府の政治的な体質が存在していた。

これに対して国際社会、とくに米国を中心とする「表現の自由」を求めるインターネット・コミュニティのメンバーやNGOなどの市民運動グループ、さらに欧米マスメディアなどによって、シンガポールは「インターネット規制」の推進役だというネガティブ・イメージが国際的に広まり、シンガポールといえばインターネット規制のシンボルとまでなってしまった。

さらにこれに追い打ちをかけるように、マレーシア政府は1996年に、MSCの具体的な推進策の一環として、「インターネットは規制しない」とマハティール首相自ら公言し、シンガポールの厳格な規制政策との違いを強調する作戦に出た。本来イスラム教が主流の社会で、保守派も根強く、ポルノなど汚染情報の流入には厳しいはずのマレーシアだが、シンガポールが国際的に被った不評を見て、マレーシアは異なる価値観にも寛容なオープンな社会であると強調することで、欧米企業誘致のスコアを上げる狙いがあったといえよう。

インターネットにおける情報内容の規制については、1995年2月に米国議会がCDA(通信品位)法案を可決し、クリントン大統領もこれに署名して成立させたほか、ドイツでも政府による規制政策が推進されるなど、必ずしもシンガポール政府だけが強硬策を採用したわけではなかった。中国政府はシンガポールの規制方法を直接参考にしつつ、96年に100カ所の「禁止サイト」を指定するなど、アジア諸国を中心にシンガポール方式も一定の支持があったといえる。

しかし、米国のコンピューター業界など民間企業は、とくにベンチャー企業を中心に、もともと政府による規制や干渉を強く嫌う体質をもっており、シンガポールの情報規制への反発も強かった。その結果、シンガポールは情報内容への規制が厳しく、企業活動についても不自由だという悪印象が世界中に広まったことは否定できない事実である。

シンガポールONEの推進にあたっては、こうした点も相当考慮に入れられている。SBAは、現在の規制は暫定的なものであり、近く規制を緩和することを検討中だと表明した。政府関係者の間でも、インターネット分野でシンガポールにとって困難な問題は規制問題だけだとの認識が広まっているという。

IT2000では世界に先駆けてNIIとインテリジェント・アイランドという先進的な構想を打ち出したシンガポールだが、インターネットの普及に対しては、慎重な態度に終始し、世界の大勢がほぼ決まる頃になって、ようやく自国でもその積極推進に乗り出したという指摘もされている。ただし、いったん推進すると決めれば、限られた地域と人口の小国で、政府の統制が効いている社会であるだけに、普及率を高めることはそう困難ではないといえる。このあたりは日本の現状とも共通するところがあるかもしれない。

インフラにかかわる「民間企業」は、実態は国の持株会社が支配している国営企業も多く、しばしば「シンガポール・インク」と総称されるだけに、本当の民間企業による市場での競争によって育まれる創意工夫、ベンチャー精神といった面では不利でもある。



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