3 マレーシア MSCの課題と可能性


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1 高まる失速のおそれ



(1)逆風でも強気で推進

 2020年に先進国の仲間入りを実現することを国家目標に掲げるマレーシアは、その実現の中核手段として、21世紀型情報社会の先導実験であるMSC(マルチメディア・スーパー・コリドール)計画を推進している。首都クアラルンプールの南に広がる東西15km、南北50kmという地区に、首相官邸を先頭に政府省庁を移転する行政都市(プトラジャヤ)と先端産業を集積する情報化モデル都市(サイバージャヤ)のツインシティを構築し、マルチメディアを応用する大規模社会実験を展開しようという大胆な構想で、隣国シンガポールをはじめとするアセアン諸国はもとより、欧米各国の企業、政府から大きく注目されてきた。
 96年に発表されたこの構想は、97年5月、中核都市サイバージャヤの起工式を境に、「コンセプト」から物理的なインフラ建設・実務的な企業誘致という、より現実的な段階へとフェーズが移行した。
 しかし、まさにその折、97年7月に、東南アジア全域で通貨・経済危機が発生し、「アジアの奇跡の急成長」は一気に減速し、MSCもマハティール首相が描いた当初の壮大な構想がどこまで実現できるのか、おおきな試練を迎えるに至った。
 マハティール首相は、経済危機の主要な要因を外因に求め、国際通貨投機筋、とくにジョージ・ソロス氏を非難してきた。しかし、実体経済の後退はもはや否定できない事実であり、政府系企業の業績悪化、有力銀行の経営不安を初めとする金融システム不安などの現象の底に、10年間続いた高度成長そのものの手法が問題視されるようになっている。政府による巧みな外資導入、外国技術導入を核とする経済政策、マレー系住民・企業を優先させる「ブミプトラ政策」など、「アジアの優等生」と賞賛されてきたこれまでのマレーシア経済を支えた手法そのものが、現在の経済危機の「内因」として問題を指摘されるに至っている。
 政府は経済不況の逆風にめげず、MSCプロジェクトの推進にはあくまで強気の姿勢を維持している。むしろ不況打開のための中心施策として、情報化分野に対する優先度は高く保持し、政府予算の策定、プロジェクトの実施面においても、少なくともこれまでは、他分野が軒並み削減を余儀なくされているにもかかわらず、MSC関連については、少なくとも表面上は一切カットしないとの方針を堅持してきた。ただし、背後では、大蔵省などからMSCへの支出も大幅削減するとの圧力が強まっているといわれ、この方針が実際どこまで貫けるか、疑問視されている。


(2)構想から実現段階へ 課題も浮上

 現在のMSCは、プロジェクトの第一段階である基本コンセプトとマスタープランの検討・策定から、その公表、広報・宣伝という時期は終了し、実際の企業誘致の実現と、それを受け入れる基本インフラの構築、環境整備、各種制度の実現という第二段階に入ったところである。
 MSCの中核を成す情報技術集積都市、サイバージャヤは、97年5月に土地の造成工事が開始され、現在急ピッチで進められている。97年末から98年にかけて、一部企業の仮事務所での進出が始まっている。用地の売却価格・契約の詰め、通信インフラの具体的な形態・技術・設備・サービスメニュー、そして料金を決定・公表すべき時期も近づいている。先行していたプトラジャヤは、98年秋に予定される首相官邸の移転を先頭に、省庁が順次移動を開始し、都市機能が始動しようとしている。
 MSCステータスを申請した企業は、98年4月現在で200社を超え、うち126社がすでに認定を受けている。これらの企業の多くは、5年間のビジネスプランを提出し、MSC地域内での具体的な事業計画・人員計画の策定、資金調達、土地の取得交渉、オフィスの選定・検討の詰めなどの実務的な作業に入りつつある。
 こうして、構想から実行段階へとフェーズが進行するにつれて、従来は顕在化していなかった具体的な課題が浮上してくるのは自然の流れといえよう。それに、最近の経済情勢の急変が拍車をかけている。
 率直に言って、マレーシア側のMSCの推進体制、とくにインフラ構築の展開を含む企業誘致の体制には、大きな問題が存在し、場合によっては大きく失速する可能性があることはもはや否定できない段階にまで達したと言わざるを得ない。本来最大の売り物であるべき通信インフラについても、プロジェクト全体の成否の鍵を握る人材育成計画も、大きなビジョンこそ提示されたものの、具体的な実施計画がまったく明示されず、進出企業側の不安は募っている一方である。
 マレーシア側のMSC推進の方法論としては「トップダウン」の要素があまりにも強く、それでいて資本も人材も外国企業への依存度が高く、独自の技術力で新製品・新規市場を開拓するベンチャー企業の育成は不十分である。
 インターネット分野でも、技術者の育成は十分ではなく、いわゆるインターネット・コミュニティの形成が、シンガポールはもちろん、タイやインドネシアなどの隣国と比べてもはるかに弱い。
 誤解をおそれず言えば、現在のままの推進体制を続ければ、欧米系企業も含めて、早晩MSCへの熱は冷めたものとなり、プロジェクトそのものの成否が根本から問われる事態が到来する可能性も高いのである。
 こうした状況のなか、事態を憂慮したNTTでは、現地法人であるNTTMSCが積極的に動き、アジアネットワーク研究所と協力して、MSCに事業的な関心をもつ日系企業に呼びかけて、「MSCフォーラム」を組織し、MDC側に率直に問題点を提起するとともに、改善策を要望・検討する動きを開始しようとしている。日系企業の間には、「もはや遅きに失している、マレーシア側が根本的な解決をできるとは思えない」との否定的な意見もあるが、中・長期的な視点から両国の共通の利益の実現のための方策を探求しようというのが大きな趣旨である。


(3)進出希望企業とマレーシア側との間に大きな認識ギャップ

 98年2月中旬、MSCを支持する各国のハイテク企業のトップ経営者や学者などがマレーシアに招かれ、「国際顧問委員会」が開かれた。この委員会ではマハティール首相自らが終日積極的に議論をリードし、インターネットの規制には慎重な姿勢を見せつつも、文化的多様性の維持、教育にネット利用を導入することの重要性などが論じられた。欧米からの参加メンバーは、マレーシア側の率直で大胆な構想を追求する姿勢に感銘を得ていたようだが、実情を詳しく把握していないままに、マレーシア側の「宣伝」に無邪気に乗せられているきらいも大いにあった。
 これと前後して、インテル、アルカテル、エイサーなど、欧米、アジアのハイテク企業が積極的な投資計画を発表し、国内の不況の影響を受けて慎重な姿勢を保っている多くの日本の企業とは対照的な状況が描かれた。欧米企業から見れば、通貨価値の下落により、土地も人件費も大きく値下がりし、むしろ投資のチャンスと捉えられるのだろう。
 この国際顧問委員会には日本企業の経営トップはほとんどが欠席し、関本NEC会長の姿のみが目立っていた。米国側も、昨97年には、現地シリコンバレーで開催されたこともあって、シリコンバレーのコンピューター業界の首脳が揃って参加したが、今回は彼らの姿はまったくといってよいほど見えなかた。アルカテル、エリクソン、ルーセントといった交換機メーカーの首脳が、受注活動を前提として参加している色彩が強かった。
 日本企業では、これまでにMSCステータスを取得した企業が実質的には7社(NTT、富士通、NEC、インフォテック、CADIX、ジャストシステム、ブリジストン)と少なく、当初の50社という想定を大きく下回っている。現在申請中の企業や今後申請を予定している企業は、トヨタ、住友電工など、少なくとも数社はあるとみられるが、全体としては欧米企業およびマレーシア国内企業と比較して、参加関心の低さには顕著なものがあり、および腰が目立っている。NTTは当初からの経緯もあり、積極的に参画する立場にあるが、他の日本の企業が同様に加わる図式は、現状では期待できない。


(4)見えない進出メリット、低い透明度

 こうした事態の原因には、マレーシア側、日本側のそれぞれに要因があると考えられる。
 まずマレーシア側の問題点としては、なにより企業にとってのMSC進出の具体的なメリットが明確に見えてこないことがあげられる。外国人雇用の自由化、資本の自由化、税制優遇など各種の施策が打ち出され、「サイバー法」に代表される法体系の整備も進められると発表されているが、これらの一部は実はすでに製造業に適用されているものであったり、あるいは隣国のシンガポールなどで同様の条件が出されているなど、MSCに限った特典とはいえないのである。シンガポールや台湾では、政府による積極的な資金援助のスキームが用意されているのに対して、MSCではマレーシア側の財政に余裕がないことが原因して、「自力での投資、実験」が基本であることも企業側の進出意欲を削ぐ結果となっている。
 また、プロジェクトの内容についての透明度がきわめて低いことがあげられる。たとえば、MSCの中心プロジェクトと目される「電子政府」、「遠隔医療」などの「フラグシップ・アプリケーション」は、97年7月に参加公募が発表され、当初は97年末から98年2月にかけて事業主体が審査・決定されることになっていたが、98年5月現在で、いまだにその発表がなされていない。応札した企業側に対する明快な事情説明もなく、選定過程が不透明で受注見通しが立ちにくいとの不満・不信が募っている。  同じく最大の売り物とされる通信インフラは、技術上の仕様・構造、ネットワーク容量、料金体系などの具体的な仕様・詳細がまったく明らかにされていない。さらに、道路、土地、住・生活環境などの基本インフラも、工事の進捗見通し、販売価格・時期などが明らかでない。
 これらの点について、MSC推進機関であるマルチメディア開発公社(MDC)側の認識、要求と日系企業側とのそれとの間に、大きな認識ギャップが存在している。後で詳しく述べるが、MDCをはじめとするマレーシア側のプロジェクトの実務遂行体制・能力上の問題点もしばしば指摘されている。MDC職員に対して、「専門性に欠けている」、「電話をかけても全然つかまらない」、「お客に対する態度が横柄だ」といった批判が出されている。
 また、根回し・コンセンサスに基づいた経営判断、意思決定を行なう日本企業の組織体制と、トップダウン型の意思決定で迅速な決定(とその変更)を特徴とする欧米企業との違いが、マレーシア側はよく理解できていないともいえる。それが日本側の消極姿勢を引き出している。


(5)日本企業側の問題点

 一方、日本の企業側の問題点としては、第一に日本経済そのものがマイナス成長を余儀なくされ、成長率が急落したアジア市場への新規投資についての環境がきわめて悪化していることがあげられる。各企業の投資力そのものが低下しているなかで、実験的な色彩が強く、相対的なリスクが高いとみられるMSCへの参加にはどうしても消極的にならざるをえない現実があるといえる。
 また、マレーシアへの進出企業の実態をみると、日系企業は、電子電気・機械産業を中心とする製造業が大半を占め、MSCが推進しようとしている情報技術(IT)、とくにソフト分野が主導する形での新規技術・製品の研究開発、市場展開を志向するために立地しようとする企業が相対的に少ないことがあげられる。それにしても、マレーシアにおけるこれまでの日系企業の展開規模、実績を考慮すると、MSCへの参加意欲が低いという事実は否定できない。


(6)インターネット中心の新しい競争が始まった

 グローバルな状況に目を転じると、97年の後半に米国の通信市場を揺さぶった、ワールドコムによるMCIの買収、そして98年に入って、QWEST、LEVEL3など、IPネットワークを中心とする新興通信会社が続々と登場していることがいやでも目に入る。MSCも、本来であれば、こうした最先端の流れを実験する場として意義があったはずである。
 ワールドコムによるMCIの買収は、一見、地域中心の新興電話会社が長距離電話会社を買収したかに見えるが、構造的にはそうではなく、インターネットの市場展開を最大の推進力とする戦略展開だと解釈される。1996年、まず世界初のインターネットの商用ISPであるUUNETが、大都市での商用データ通信専業会社であるMFS(メトロポリタン・ファイバー・システム)に買収され、そのMFSを、ワールドコムがUUNET込みで買収したというのが事態の発端である。これと並行して、ワールドコムはパソコン通信のパイオニアであったコンピュサーブ社を買収し、それを同じパソコン通信の後発会社で、コンピュサーブを追い越したAOL社に売却するという複雑な買収劇を演じた。この影で、ワールドコムは、AOL社が所有していたANS(アドバンス・ネットワークサービス社)というネットワークをコンピュサーブと交換で入手した。ANSは、もともとインターネットの前身であるNSF(全米科学財団)ネットのバックボーン回線の運用をNSFから委託されていた、インターネットのパイオニアともいうべき企業である。
 つまり、ワールドコムはMCI買収によって、すでに傘下におさめたUUNET、MSF、ANSという、これまでのインターネットの中核を支えてきたネットワーク・サービス3社に、さらに全米最大の幹線サービスを加えたことになる。インターネットの需要が今後急増し、2003年には、電話の10倍ものトラフィックに達すると予測しての拡張戦略である。これら一連の買収戦略は、インターネットの老舗、UUNET出身の経営者がすべてのシナリオを書いて進めてきたのだという説もある。
 98年に入って、石油・鉄道王が資本投下する新興会社のQWEST、建設会社系のレベル3、パイプライン会社系のウィリアムスなどが、全米にインターネット型の技術を中核とした新規の大容量幹線網を構築し、インターネット型のデータ回線に音声も映像もすべて統合する戦略による新たな競争を強力に展開し始めた。彼らはAT&T、スプリントなどの長距離会社を敵にし、地域ISPとの連携を進めてRBOCsとも戦い、最先端の通信技術・設備による低コストを武器に、一気に新たな市場を構築・支配する戦略を打ち出している。
 ヨーロッパにおいても、民営化されたドイツテレコムが、ネットワーク全体をIP中心の転換するとの戦略決定を行ない、ADSLなどの事業展開を早め、新たな競争が始まろうとしている。事実、ヨーロッパでも、「米国に3年遅れ」で「サイバー・ユーロップ」が始まり、現在人口の7%とみられるインターネットのユーザーが2001年には13%と倍増の勢いで伸びつつあり、電子商取引も現在の12億ドルから3年後には64.4億ドルへと急成長するとの予測が出されている(『ビジネスウィーク』98.5.11)。

 こうした欧米でのインターネット型事業の新規展開の潮流は、早晩アジアに、マレーシアに到来することは間違いない。新規技術に依拠することで、通信コストが大幅に低減できることは、事実として隠しようがなく、従来型のサービスを規制によって維持することは即国際競争力の低下を意味するからである。仮にMSCでは、TMの独占支配が維持されたとしても、隣国のシンガポールONEが先行的に新たな技術体系に移行したり、あるいは台湾や香港などが先行すれば、マレーシアの優位は一気に崩れてしまう。MSCの現状は、その恐れが次第に実質的なものへと変わりつつあることは否定できない。まさに正念場に到達したといえよう。ここ数カ月から一年くらいで、マレーシア側が本当に有効な手をうち、体制を立て直すことが、MSCの成功のためには必須だといえるだろう。




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