2 インドネシアのインターネットの沿革


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インターネットのインターネットの発展の歴史的経緯について、とくに、トップレベル・ドメイン(TLD)の「.id」およびセカンドレベル・ドメインを中心とする、インドネシアNICの形成を中心に、インドネシア大学コンピューター・センターでインターネットを積極的に立ちあげてきたラマット・サミク・イブラヒム(Rahmat M Samik - Ibrahim)氏の論文をもとに、追ってみた。
この問題は、最近話題になっている「インターネットのガバナンス」問題の一例でもあり、インターネットの普及をどう推進すべきか、異なる社会的勢力の協力・相互理解の重要性、あるいはその困難なことをを浮き彫りにしている事例ともいえる。


1)PAGUYUBAN 結成まで - 1980年〜1990年初期


インドネシアのトップレベル・ドメインである「.id」は、1980年代からインドネシア大学コンピューター・センター PUSILKOM UI (Pusat Ilmu Komputer Universitas Indonesia)によって非公式に使用されていた。当時 indogtw.uucp のホストマスターであったパルトノ・ルディアルト(Partono Rudiarto (Didik))氏によってこの非公式TLD-IDが利用されていたことが確認できる。ただし、当時はまだUUCP接続のみであった。「indogtw.ui.ac.jp」といったドメイン名は、sendmailプログラムに対してpathaliasプログラムを走らせることのできる一部のコンピューターでしか翻訳できなかった。これには多くの不満が寄せらた。たとえば、インターネット協会では、インドネシアから送られてきた「indogtw.uucp」というアドレスのメールに返信が出せなかったことがあったという。あるいは、オーストラリア軍アカデミー(Australian Defense Force Academy)のクリストファー・バンス(Christopher J.S. Vance)博士は、1993年はじめに、TLD-IDはグローバルに使うことができないと批判している。

それまでインドネシア大学は、公式にTLD-IDを申請することを避けていた。技術的な問題と、申請の結果を気にしていたためである。しかし、インドネシア大学は、1988年からTLD-IDの問題を協力して解決しようとして、PT. Indosa Perumtel(現在のPT Telkom)、P.T. Lintasarta等、いくつかの研究機関との協力を求めるようになっていった。
その結果、1992年5月8日に、インドネシアのTLD問題についての初の非公式会議がインドネシア大学で開催された。この集団はのちにPAGUYUBANという名前で知られるようになり、BPPT(インドネシア技術評価応用庁)、LAPAN, STT telkom(スラバヤ高等学校(大学))、そしてインドネシア大学の代表が参加していた。
この会議では以下の3点が決定された。

・BPPTとインドネシア大学との間をUUCPで接続する。
・インドネシア大学とLAPAN(ボゴール)の間を407MHzの無線でリンクする。
・LAPANとバンドン工科大学の間を139MHz の無線でリンクする。

この会議の出席者は以下の通りであった。
Abdul Muthalib Adriani Imam Sudarwo Firman Siregar Haydin Syafrudin
M. Ichsan M. Sahry Ramadhan Rahmat M. Samik-Ibrahim R. Toto Santoso ほか。


PAGUYUBAN はインドネシア全土のコンピューター関連の研究所との提携関係を形成し、インドネシアにおけるインターネットのパイオニアと呼ばれるようになった。
PAGUYUBAN の成功をもたらした大きな要素の一つが、PAU-MIKROというメーリングリストである。当初このメーリングリストは、バンドン工科大学の学生で海外で勉強をしている者のためのコミュニケーション・ツールであった。このメーリングリスト上で、技術的な議論がオープンに展開されるようになったことで、全国的な価値をもつものとして認識されるようになっていった。
上述のリンクが張られたことによって、相互の知識が深まり、インドネシア大学はアメリカのUUNETの助けを借りてTLD-ID申請を行うことになった。1993年3月4日のことである。UUNETは、インドネシアの公式なトップレベル・ドメインをUUNETの標準的なネームサーバーとして申請したことを表明した。



2)セカンドレベル・ドメイン問題 - 1993〜94年


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UUNETは当初、「*.id」に届くメールはすべてindogtwというゲートウェイに転送されるようにMXをセットアップした。当時はインドネシアにおけるセカンドレベル・ドメイン(DTD: Domain Tingkat Dua)はまだ「.ac」と「.go」の2つしか存在していなかった(例:itb.ac.id=バンドン工科大学、ugm.ac.id、ui.ac.id=インドネシア大学、bppt.go.id、dikti.go.id)。
ところが、このindogtwにメールの誤送などの問題が発生しはじめた。そこでこの問題を解決すべく、1993年5月25日から、「*.id」宛のすべてのメールは、UUNETによって、必ずDTDのみを通してフィルターされて配信されるようになった。セカンドレベル・ドメインも、それまでの「.ac」、「.go」に加えて、「.co」、「.etc」、「.mi」、「.or」,「.id」、「.test」が追加された。

パルトノ・ルディアルト(Partono Rudiarto)氏によれば、セカンドレベル・ドメインの様式の決定には韓国で使われていた様式を参考にしたという。セカンドレベル・ドメインに2文字を使用しているのは、日本、英国、ニュージーランド等であった。他の決定様式(3文字)を採用している国は、米国、オーストラリア(edu.au、gov.au)などがあった。
さらに、委任作業(pendelegasian : delegation)をより簡単にするために、1994年4月5日から、クリストファー・バンフ氏の協力を得て、TLD-IDをUUNETからADFA(オーストラリア軍アカデミー)に移行した。同様に、ドメインの委任依頼も現れた。最初に認められたのは、gundala.or.idであった(1994年4月)。1994年10月4日に、ac.id、co.id、go.id、or.id、net.id、mil.idの各セカンドレベル・ドメインへの代理人が、jatz.aarnet.edu.au、is.nic.ad.jpとともに準備された。その他、1993年9月7日からは、indogtwのresource record MXも、UUNETからindogtwとuucpで接続していたDIALix(オーストラリア・パース)へと移管された。
PSG.COMは、1994年2月までに、セカンドレベル・ドメインのCOM.ID、GOV.ID、NET.IDおよびORG.IDの委任者(pendelagasian: delegation)となることを申し出た。この申し出は、PSG、UUNET、NSFの間にメールでの激しい論争を巻き起こした。しかし、PSGがこの主張を通し続けなかったため、委任関係(pendelagasian : delegation)は変更されなかった。



3)IPTEKnetとISP会議 - 1994年


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1994年11月10日より、DTD-GO.IDが、政府による研究ネットワークであるIPTEKnetに移行した。同時にIPTEKnetはDTT-IDとその他のセカンドレベル・ドメインからの公式な二次的(secondaries)サイトとなった。当初の計画では、TLD-IDとDTDはIPTEKnetに徐々に移行していくことになっていた。しかしこの代理人のプロセスは実現されなかった。IPTEKnetは、他のセカンドレベル・ドメインを管理運用するためのモデルとなるべきDTD-GO.IDという組織を産出することが容易でないと理解したからである。1995年6月1日に、IPTEKnetは最終的なDTD-GO.ID.の担当組織の構成を発表した。
この代理人の移行計画は、結局IPTEKnetによって続けられることはなく、1995年に開かれた画期的なISP会議で、INDOnetとRADnetが、DTT-IDとセカンドレベル・ドメインのsecondariesとなることが決定された。
1996年3月11日、いくつかのISPがインドネシア大学のコンピューター・センターに集った。この結果は「Supersemar1996」として知られ、公に、新しいドメイン申請のための説得力のある発展モデル、とくに「net.id」という新しいドメインを生み出した。

この会議の出席者は以下の通りであった。
Dr. Bobby Nazief (UI) Ichsan Darmadji (CBN) Tonny S. Hariman (CBN)
Dani Sumarsono (CBN) Bambang DP (Pos Indonesia) Achmad Yusuf (Pos Indonesia)
Sentot Baskoro (CBN) Dr. Joseph F.P. Luhukay (Pembina IPTEKnet) Bob Hardian (UI)
Doni Wiratmoko (SOnet) Hesum Utomo (SOnet) Johny Suryoprayogo (INDOSOFT)
Michael S. Sunggiardi (INDOSOFT) Bob Boetarboetar (GlobalNET)
Herry Waldi W (IDOLA) Yohanes Aries (IDOLA) Tri Sakti Soebagyono (IDOLA)
Titik Retnowati (IDOLA) C. Tambunan (IDOLA) Rico S (INDOSAT) Subagia (INDOSAT)
Gujandi S (RADnet) Sanjaya (INDOINTERNET) Hermith JJ Martin (INDOINTERNET)
Iman Nurdin (RADnet) Andrigo Akman (RADnet)
A Primarta S (IDOLA) Arief R.Y. (IDOLA) Wiwit (W-NET)
Jonathan S. Hasugian (W-NET) Rahmat M. Samik-Ibrahim (PDTT-ID)



4)APJIIの発足とその後 - 1996・97年


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1996年7月16日に開かれたインドネシアの商用サービスプロバイダーの事業者による協会、APJII (Asosiasi Pengelenggara Jasa Internet : Internet Service Providor Association)とインドネシア大学との会議の席上、上記3月11日の会議での結果をさらに推進することが確認された。
1996年7月27日以来、インドネシアにおけるドメイン申請は、APJIIとインドネシア大学のチームによって行われていた。しかしこのドメイン申請のモデルは1997年8月7日までしか適用されなかった。1997年10月1日をもって、インドネシア大学が手を引くと表明したからである。  ラマサット・イブラヒム氏はトップレベルドメイン(PDTT-ID)の管理を継続するつもりはなかった。1996年以降、彼は、インターネットよりもむしろMISやグループウェアに関心をもち、その研究活動の方に力を注ぐようになったのである。インターネットのガバナンスをめぐる争いに嫌気がさしたことも十分考えられる。
DTT-ID委員会はその後も存在してきたが、活動期間には制限が設けられた。ラマサット・イブラヒム氏は1997年9月30日、ブディ・ラハルジョ氏に、新しいドメインの委任管理チーム結成のアレンジと、その開発計画案の作成を依頼した。その後1998年になって、独立組織としてIDNICが誕生したと伝えられている。



5)IDNIC(Indonesia Network Information Center)


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インドネシアにおけるインターネット状況は、まだユーザー数が少なく、接続料がきわめて高い、不安定なものである。インターネットを発展させるために効果的に望ましいだけのユーザーを得るためには様々な方法が考えられるが、ラマサット・イブラヒム氏は、草の根的な方法が一番だと考えている。「他の人々が使っているから自分も使おう」という考え方である。イブラヒム氏は、TLD-IDは、本来なら、インターネットの発展を抑制するためにではなく、促進するものとして存在すべきだと考えてきた。
インドネシアにおけるNIC(Network Information Center)を設立するにはその目的を明確にする必要があり、それを基に、IDNICの法的地位を確立し、APJII、インドネシア政府と協力し、インターネットのグローバルなガバナンスの枠組みを決めた「gTLD-MoU」にも署名・参加すべきと考えている。
IDNICの発足にあたっては、以下の組織からの意見が寄せられている。
ABRI APJII BAKOTAN BPPT Deperindag DRN IPKIN Kadin
Perguruan Tinggi SekNeg Wakil pengguna YKLI ほか。


IDNICを中心とするインドネシアのインターネットの管理運用体制については、APJIIによる商用プロバイダー事業者と、インドネシア大学やバンドン大学などの当初からの研究者チームとの間に激しい対立が生まれ、双方がIDNICを主張している事態となっている。
IDNICのルートサーバーは、もともとイブラヒム氏がインドネシアからメルボルン大学に留学していたために、オーストラリアのメルボルン大学に置かれ、現在もオーストラリアにあるという。APJIIは、IDNICがアカデミックな研究者によって管理されることを好まず、インドネシアにおけるインターネットの支配権を確立するために、インドネシアのNICのサーバーが外国にあることは反愛国的であると攻撃してきた。

しかし、ようやく1998年になって、バンドン工科大学(ITB)のブディ氏らが中心となって、IDNICが独立した形態で確立されたという。APJIIはもちろんこれを認めようとせず、自分たちがIDNICを運用しているかの主張をしているが、実際にはそうではなく、ITBで運用されているのである。

ただし、これらの論争は、ホームページでの資料も含め、大半がインドネシア語で交わされ、外部からはなかなか正確な状況が把握しにくいというのが実情である。APJII側の主張にも、一部には首肯できる点もなくはないが、背後に隠されている意図については、俄には理解し難いものも多い。

こうして、インドネシアのインターネットは、他の多くの国と同様に、当初は大学の研究者たちの個人的なボランティアが基本となって発達してきたが、近年になって、商用プロバイダー側が積極的に全体のガバナンスに対する発言力を強めようとして、少なからぬ軋轢を生むようになっている。政府省庁も、科学技術の振興を担当する部署(科学技術庁)と、通信の規制を担当する部署(郵電省)、そして産業振興を担当する部署(産業省)とが、それぞれの思惑をもってインターネットに対する政策・政治的関与を考えており、国全体の統一された政策にまではなかなか至っていないのが実態である。





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