参考:インドネシアの社会事情について
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以下は、インターネットの情報化推進の動向を理解する上で参考となるように、インドネシアの社会事情について、その要点のみを簡単にまとめたものである。
1)多民族国家 インドネシア
エメラルドの首飾り
インドネシアは赤道直下、東南アジアからオセアニアにかけて東西5000キロメートル、南北3000キロメートルに広がる世界最大の多島国家であり、この巨大なガルーダ列島は、南海に浮かぶ「エメラルドの首飾り」との異名を与えられている。
スマトラやカリマンタン(ボルネオ)などの島は、日本の国土よりも大きく、大小1万あまりの島々からなる国土は、合計面積では日本の5倍にも及ぶ。人口は1995年現在で約1億9400万人、300余の種族と約250の言語に分かれている。高度経済成長により世界から注目される東南アジア地域の諸国の中で、豊富な人材に加え、石油・森林・観光資源などに恵まれたインドネシアは飛び抜けた大国と言える。
16世紀に香料を求めてはるばるやってきたヨーロッパ人たちの中で、最終的に交易の支配権を手にいれたオランダは、その後350年にわたってこの地域を支配した。とはいっても、一挙に隅々まで支配が及んだのではなく、その影響は地域や時代によって様々だった。オランダの植民地支配以前には、現在のインドネシアの領土を成す地域を支配する勢力はなかった。換言すれば、今のインドネシアという国家は、植民地支配の結果生まれたものである。
2)多様性の中の統一
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青年の誓い
インドネシア国民はスマトラ島中部・リアウ地方の言葉であったムラユ語(マレー語系)を「統一インドネシア語」として採用し、普及活動につとめた。この歴史的英断が1928年10月に発表された「青年の誓い」の中でなされたことは有名である。この「青年の誓い」では「一つの祖国、一つの民族、一つの言語」とうたわれている。インドネシアが「国家」として統一を保ってこられた最大の要因の一つが、この「統一インドネシア語」なる社会統制が確立されたためであると言っても、決して過言ではない。
宗教
インドネシア国民の約90%はイスラム教徒であるといわれ、イスラム教以外の宗教には、キリスト教(約8%)、ヒンドゥー教(バリ島のみ)、仏教(華僑主体)があげられる。
一見してイスラム教の優位性は明白だが、インドネシアは、「イスラム国家」ではない。しかし政府は一貫して国内の宗教活動を管轄する宗教省の実権を握っている。このパラドックスは、イスラム教の勢力を宗教を教派組織・理念的教義からとらえるのではなく、人々の生活の中にあって、その日々の生活に価値を与える世界観として捉えてはじめて、理解できる。
この国では1945年8月の独立に際し、憲法でイスラム教を「国教」と規定しようとした動きも出たが、そうなれば他の宗教との争いは避けられないだろうとのことから、同規定の盛り込みが見送られた経緯がある。これは、秩序を守るために社会統制をあえて課さなかった良い成功例だろう。
インド、北アイルランド、ボスニア・ヘルツェゴビナ、旧ソ連の共和国などで20世紀の現在までも続く“宗教戦争”を見るにつけ、多民族・多宗教のインドネシアが選択した1945年憲法の判断が、いかに優れていたかを知ることができる。
ビネカ・トゥンガル・イカ
3年半にわたる日本の軍政、1945年8月17日の独立宣言、そして対オランダ独立戦争を経て、インドネシアが実質的に独立したのは1949年のことである。広い国土に約300の異なった民族が住み、その各民族の織り成す歴史・文化・社会の「多様性」は他の国には見られないものがある。
世界最大の多島国家として知られ、多様な民族、多様な宗教、多様な文化からなる国インドネシア。一つの国として成り立っていること自体が不思議なこの国を、インドネシアという一つの国の枠の中にまとめるためには、1950年にインドネシアの国是として正式に採択された“ビネカ・トゥンガル・イカ”というスローガンが絶対不可欠であった。これは、「多様性の中の統一」を意味する言葉であり、インドネシアが多様な民族的・文化的・地域的要素を内包しながら統一を保っていることを示す。
パンチャシラ
さらに、もう一つの国是である「パンチャシラ」は、独立に際しての国家の理念をうたったもので、
1. 唯一絶対神への信仰
2. 人道主義
3. インドネシアの統一
4. 民主主義
5. 社会主義
の5つの原則から構成されている。
高校の『パンチャシラ道徳教育』という教科書を参照すると、「1:信仰ある生活、2:民族の共生、3:インドネシア統一と団結の強化、4:独立宣言精神の育成、5:パンチャシラ精神、6:新秩序発足、7:インドネシア民主主義の実践」と、全9章で構成されている。
この教科書で第一に強調されているのが、「パンチャシラはインドネシアの基本を成し、国民生活の指針」であり、「インドネシアでは、カール・マルクス=共産主値が言う、“宗教はアヘンで、人間の尊厳を破壊する”との考えは受け入れない」と共産主義を明確に拒否していることである。
これは、「唯一絶対の神をもたないインドネシア人は、パンチャシラを信じないのと同じ」と規定し、パンチャシラを公認の5つの宗教・神に次ぐ第6の“絶対神”的扱いをし、共産主義だけでなく、イスラム教、とくにイスラム原理主義派や過度な民族主義の台頭に歯止めをかけているともいえる。
3)スハルト政権と教育
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スハルト以前
「独立の父」と呼ばれたスカルノ大統領は、抜群の弁舌とカリスマ性で国内をまとめ、350年近いオランダの植民地支配から念願の独立を達成した。インドネシアが独立宣言と同時に採択した1945年憲法は、31条で「すべての国民は教育を受ける権利を有する、政府は法律をもって規制する国民教育制度の確立その実施につとめる」と宣言している。政府には教育文化省が設置され、中央集権の教育行政をとることになり、これまでの多様な学校制度を廃して、6-3-3制が採用された。
スカルノ大統領はまだ混乱の続く国内の整備だけでなく、海外に向けても第三世界の代表として積極的な発言を繰り返した。しかし、内政はいたるところに綻びが見え、経済をはじめとする行き詰まった国内問題から国民の目をそらそうとして無理を重ね、インドネシア共産党勢力を核とするクーデター未遂事件(1965年の「9.30事件」)で失脚した。
スハルト政権誕生
スハルノに代わって1967年に発足した現スハルト政権は、「開発独裁」という言葉に代表されるように、国民の声を丹念に吸い上げるのではなく、強権を行使しても開発を最優先させ、インドネシアを途上国から中進国へと乗せる発展を模索した。彼はまた、反体制派の除去と経済開発に専念する一方で、国家統一の為に、民族の共通体験・共通遺産としての民族闘争や独立戦争の歴史を神話化し、広めると共に、国語インドネシア語の浸透を推進した。
彼は長年の政治家としての夢が叶えられる日を「インドネシアが経済発展を達成して国民が豊かになり、援助を頼りにする受け身の途上国から脱し、国際社会に貢献するイニシアチブを積極的に取ることができるようになる日」と、ある政府高官に語っている。
映画を手段としたスハルト政権の『教育』
映画「共産党9月30日運動の裏切り」は、ジャカルタを皮切りに、スラバヤ、メダンなどの地方都市でも次々と一般公開されたのに続き、政府が援助する形で全国の小学校、中学校、高等学校、さらに各分野の公務員組織内でも“自主上演”されていった。とくに、教育機関および地方公務員組織向けの上映に力がそそがれた。
同映画製作の本当の狙いは何だったか。実写フィルムを巧みに挿入することで臨場感を盛り込んだ映画というビジュアルな「教材」を使って、国家の危機を全力で救ってきた現体制、スハルト政権の正当性と正統性を「9.30事件を知らない若い世代」に実感させ、教え込むのが目的だったのである。これによって彼は国民が、リーダーである彼の意思をくみとり、“統一国家インドネシア”を共に目指して生活していく基盤を作り上げていった。
パンチャシラと教育
スカルノ初代大統領が「指導された民主主義」、さらに「カリスマ性」を武器に、自らを絶対的なトップに据えて政治運営を展開したのに対し、スハルト大統領は国民のだれもが異議を唱えられない「45年憲法」を持ちだし、その基本理念である「パンチャシラ」を全面に掲げた政治から着手した。このパンチャシラは、スハルト政権が経済開発政策を国策の主要目標に掲げるに及んで、改めて国家哲学として強調されるようになった。ここには「動のスカルノ」に対し、「静のスハルト」といった対照的な政治姿勢がかいま見られる。
1966年7月の暫定国民協議会は、「教育の基本はパンチャシラである。教育の目的は1945年憲法の前文および本文に示されていることに従い、真のパンチャシラ精神を身につけた国民を育成することにある。この教育の目的を達成するために教育は、1:精神的、道徳的、倫理的高揚と神への信仰を深め、2:知性と技術を身につけ、3:強靭な身体を育てるものでなければならない。」と決議した。
また、1978年の国民協議会では、『パンチャシラの理解と実践の指針」と、それに基づく36の行動規範を制定した。多様な民族、多様な宗教、多様な文化からなる国家を、インドネシアという一つの国の中にまとめるために、国民一人一人が、1.宗教的に寛大で、2.人を思いやり、3.団結し、4.話し合い、5.助けあうことが大切、とされた。こうしたパンチャシラの精神が具体的な行動“規範”として教室に掲示されるようになったのである。
スハルト政権は1984年5月、ジャカルタ国立競技場で盛大な式典を催し、長年にわたり悲願としてきた「義務教育」実施を高らかに宣言した。この宣言により、小学1年(原則的には万歳)から6年(同12歳)までが義務教育とされた。公立の小学校だけでは1980/81年で105,480校だったのが、10年後の90/91年では147,066校と41,581校も増え、増加率は39.4%となっている。
しかし、その結果教育環境が大きく改善され、国民のだれもが教育の権利を等しく得られたわけではない。84年の義務教育宣言では、学校教育の根本にかかわる水準の引き上げはなかなか進んでいないのが現状である。とくにジャカルタのような都会では、教育施設の不足・不備から親に経済的負担がかかっている。
4)ジャカルタの子供たち
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教育費負担の重荷は、子供の肩にも重くのしかかる。ジャカルタの子供たちはとくに、身近なチャンスをとらえては収入に結び付ける才能を持っている。渋滞が激しい通りの交差点には必ずと言っていいほど新聞・タバコ・飲料水などを売る少年・少女の姿がある。貧しい家計を助けよう、あるいは自らの学費・教材費などを稼ごう、と毎日懸命に働いている大型バス、トラックなどが走り、ものすごい量の排気ガスがよどむ大通りの交差点で、子供たちは懸命に働いている。子供たちは自分たちを取り巻く厳しい現実に立ち向かうように毎日をたくましく、懸命に生きているのである。
児童労働の実態
1994年6月、「国家の安定を損ねる報道を行った」ために発禁処分をうけたインドネシアの有力週刊誌『テンポ』は、93年9月25日号で「誰が働く児童を保護するのか」と題する特集記事を載せ、児童労働が生まれる背景とその実態を詳しく伝えた。
この記事を読めば、義務教育宣言が出されてから約10年たった今も、教育とは無縁の子供たちがまだ多くおり、また、そうした子供たちが家計を助けるため厳しい環境の中、低賃金で働かされている厳しい現実がよくわかる。同誌によると、1990年の統計で、10〜14歳の児童労働者数は全国で240万人にも達している。しかしこの数字はかなり控えめであるほか、路上での新聞・タバコ売り・レストランなどに入りこみ、夜遅くまで客の靴を磨く少年・少女たちは含まれていない。中央統計局の92年度版統計によると、91年現在、義務教育年齢に当たる児童(7〜12歳)のうち、学校に通っているのは約2,690万人、また、10〜14歳の児童のうち10人に1人が学校に行かず、何らかの形で働いているものとみられる。
インドネシアは1989年から93年までの年間経済成長率が平均で6.9%に達し、好調さを維持してきた。1993年には1人当たりの国民所得も初めて700ドル台を突破し、95年にはついに1000ドルの大台に達した。
しかし、問題はこうした高度成長の恩恵を誰が受けているかだ。その意味で、スハルト政権が政治の中心に据える「パンチャシラ」がうたう「公平と人道主義」「社会主義」が十分に実践されているとはいえない。逆に、開発政策、経済の高度成長が大統領一族、周辺の政府高官、政商ら一部の者たちをより富ませる結果になっている。中流階級の台頭も見られるが、裾野への広がりまでには至っていない。「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」という「富の配分の不平等・不公正」状態がかえって進んでいる。児童労働の実態には、偏った政治が産み出す「現実」が見られる。換言すれば、高い経済成長は、こうした年端もいかない子供たちが、その底辺を支えているから維持できてきたともいえる。
反対に、経済危機が深刻化するなかで、まっさきに収入が絶たれるのも、こうした子供たちであり、その収入を頼りとしている低所得者層である。
5)「多様性の中の統一」と教育
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インドネシア政府は「一つの国家、一つの言語、一つの民族」を強調しており、この国を構成する民族集団については統計を取っていないばかりか、現在に至るまで、インドネシア語には「多民族」ないし「多民族国家」を意味する単語が存在しない。国民統合を強調する政府の立場からすれば、ミナンカバウ人もバタック人もスンダ人もトラジャ人も何よりもまず「バンサ・インドネシア」すなわち「インドネシア国民」なのである。世界最大の多島国家として知られているインドネシアの地理的特性は、その教育の性格を形成している。
言語と教育
インドネシアには、現在、文法においても語彙においても相互に異なるおよそ250種もの地方語があり、各々の地方における日常用語として用いられている。このように互いに意思疎通が不可能な地方語のみを用いていては、統一国家の事実上の存立は極めて困難である。そこで統一された民族語の誕生が必要となり、インドネシア語が国語として、憲法の中に明記された。
しかし、すでに述べたように、インドネシアの各地方で日常一般に用いられている言語は、ジャワ島中部・東部ではジャワ語、ジャワ島西部ではスンダ語というように、各種族固有の地方語である場合がほとんどである。従って、小学校に入学したばかりの児童に対してインドネシア語のみを使って画一的に教育することは不可能である。そのため、1950年に制定された教育法では、各地方語を教授用語とすることが認められている。ただし、これは幼稚園および小学校の3年までと限定されている。小学校4年以上の学年・学校では、インドネシア語が授業で使われる唯一の言語である。
メディアとインドネシア語
テレビでは“政府公認”の地方の芸能、たとえば有名なバリ・ダンスやパダンのピリン・ダンス(お皿を持って踊る)が毎日のように紹介される。しかしその一方で、ジャカルタを舞台に繰り広げられるテレビの喜劇番組を見ると、主役はある一般家庭や行商人からいわゆるニュー・ハーフなどの、都市在住の一般庶民であり、たまに登場する他民族は、ショートパンツ姿のアメリカ人観光客や、一様に眼鏡をかけてカメラをぶらさげた日本人観光客である。ステレオタイプ化されて取り上げられるのは、インドネシア内の諸種族ではなく、彼等から見た他民族なのである。インドネシア語によるテレビ放送は、全国の村々にまで行き渡りつつあり、とくに若い世代へのインドネシア語普及に多大な貢献をしている。
いずれにせよ、インドネシアの子供たちは、家庭で日常用いられている言語とは別に、新しく国語であるインドネシア語を学校やメディアを通じて学び、やがてその国語を用いた授業を受けるのである。このように、彼等には言語教育の面で、二重の負担がかかっている。しかしこの負担こそが、多様性の中で統一国家の事実上の樹立をめざすインドネシア国民には、必要欠くべからざる責務であると考えられる。
6)社会統制とインドネシア
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インドネシアの人々は、それぞれが民族固有の文化・社会・宗教・言語を持つと同時に、統一語であるインドネシア語で意思の疎通を図り、調和を保っている。この国でも、東ティモール、アチェ、イリアンジャヤでそれぞれ民族独立問題を抱えているが、国家が四部五裂するような深刻な事態は起きていない。
これまで見てきたように、スハルト政権の「統一」を目指した強権的な治安維持体制や国民への要求は、ヒエラルキー的なものを強く感じさせる。しかし、民族・宗教間の確執がこれまで最小限に抑えられてきた裏には、20世紀に入り独立機運が芽生た頃からインドネシアの人々がすでに「統一」の重要性を肌で感じ、「多民族ありき」という動かし難い「事実と現実」を認識し、「青年の誓い」というインドネシア国民が世界に誇れる「国家的財産」を大切に守り続けてきたという背景がある。イスラム教を「国教」にしなかったこと、そして統一言語を多数民族であるジャワ人のジャワ語ではなく、インドネシア語としたことの2点は、国民の融和と団結すなわち「多様性の中の統一」を最優先させたインドネシアが世界に誇れる社会統制といってよいだろう。
・参考文献
「社会システム論」 1978年 公文俊平 日本経済新聞社
「社会システム理論」 1993年 ニクラス・ルーマン 恒星社厚生閣
「社会学講義」 1995年 富永健一 中公新書
「ブリタニカ国際大百科事典」 1995年 TBSブリタニカ
「もっと知りたいインドネシア」 1982年 綾部恒雄・永積昭編 弘文堂
「インドネシアの青少年と教育」 1991年 (財)国際青少年育成振興財団
「インドネシア」 1993年 宮崎恒二・山下浩司・伊藤眞編 河出書房新社
「どこへ行くインドネシア」 1995年 磯松浩滋 めこん
「いま、インドネシアがおもしろい」 1995年 山田道隆 勁草書房