第1章 MSCの背景


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 マルチメディア・スーパー・コリドール(MSC)は、1995年11月に、マレーシアのマハティール首相によって正式発表されたプロジェクトで、マレーシアを2020年までに先進国の仲間入りをさせるという「ビジョン2020」の中核に位置付けられ、マレーシア政府の推進する政策の中でも、もっとも優先度の高いものの一つとなっている。  なぜマレーシアが、現時点で、世界に先駆けてMSCという情報分野のプロジェクトを大胆に打ち出し、その推進に全力を挙げているのかを理解するためには、マレーシアの置かれた歴史、地政学、社会経済的な背景を理解することが不可欠と考えられる。  そこで、このMSCの本質を理解するために重要と思われる歴史的・社会的な背景について、必要最小限の範囲での考察から始めよう。



1 マレーシア立国の経緯


 マレーシアは推定人口約2100万人、東南アジアの中では小国である。面積は32.98万平方キロと日本より僅かに小さい。英国の典型的な植民地だったマレーシアは、1961年の独立からわずか30年で、輸出中心の工業化を成し遂げ、「アジアの奇跡」の代表と数えられる。1995年時点での一人あたりのGDPは4,162ドルと、シンガポール(24,697ドル)、香港(22,774ドル)には及ばないが、アジアの「タイガー」と言われる国のなかでは、タイ(2,776ドル)、フィリピン(1,080ドル)、インドネシア(1,022ドル)よりかなり高い。
 現在のマレーシアは、マレー系(60%)、中国系(30%)、インド系(8%)と、おおきく三つの民族集団から形成される複合民族国家である。この事実を受けて、MSCの特徴としても「文化の多様性」が謳われている。日本は世界でも稀な、単一民族、単一文化、単一言語、単一政体が当たり前と思っている国である。世界ではこれらの要素が一致しない国の方がはるかに多く、マレーシアもその一例である。
 そこで、やや遠回りになるが、まずマレーシアの歴史および民族構成について簡単に触れてみよう。これらの歴史・文化的な要件を知ることは、マレーシア政府の政策、とくにMSCに見られるアプローチ、なぜそのような方向が打ち出されるのかといった点を理解するために不可欠と思われるからである。

1) 古代から中世
 現在のマレー半島からスマトラ島にかけての一帯には、5000年から1万年以上前の先史時代から、狩猟採集で暮らす先住民族(オラン・アスリ)がまず存在した。彼らの起源は明らかではないが、オーストラリアのアボリジニーやニューギニアのメラネシアンとも近いと言われている。そこへ、紀元前2000年頃から、中国大陸南部の沿海州から、現在はインドネシア、マレー半島、フィリピンに広く居住する原マレー人(プロト・マレー)が渡来し、先住民族を内陸のジャングル部に追いやって、やはり狩猟採集や漁業で暮らすようになった。その後、同系統で渡来し、移動の過程で高文化を摂取して水田耕作を基盤とするようになった新マレー人(デューテロ・マレー)によって、マレー半島およびスマトラ島などには、点在する小国群が形成されていった。
 これらのマレー人の一群は、紀元後約1000年ほどにわたって、インドから渡来した仏教およびヒンズー教の影響を受けた。さらに13世紀からは、インドおよびアラブ系商人によってイスラム教が流入し、主要宗教としてのイスラム教の地位が確立された。この頃、この地域は東の中国と西のインドを経てヨーロッパを結ぶ東西交易、海のシルクロードの中継地として栄えた。14世紀に成立したマラッカ王朝は、マレー人による独立国として、マラッカ海峡をはさむスマトラ島とマレー半島を支配した。

2) 植民地から近代化、独立
 このマラッカを拠点として、中国と欧州とを結ぶ胡椒、絹、金などによる東西貿易が栄えた。しかし、マラッカ王国は16世紀にポルトガルの襲来により陥落してその植民地となり、その後第二次世界大戦後まで、オランダ、英国と支配国は遷移したものの、植民地時代が続く。この間、とくに英国の植民地政策によって錫鉱山には中国人が、ゴム園にはインド人が、それぞれ大量に労働力として移入され、マレー人に加わったことで現在の複合民族国家マレーシアの基盤が形成された。
 第二次世界大戦中の日本軍の占領・支配を経て、戦後英国は「マラヤ連合」を樹立したが、マレー人の反発を招き「マラヤ連邦」と修正された。1957年、世界的な植民地独立運動の高まりのなか、英国との交渉によって平和的な独立が認められ、独立国マラヤ連邦が成立した。
 1963年には、ボルネオ島のサバ、サラワク、そして英自治領だったシンガポールを加えて13州による「マレーシア連邦」が成立した。この連邦化には当初インドネシアが強く反対し、武力干渉が繰り返され、1966年にようやく平和協定が締結された。インドネシアのスカルノ大統領は、マラヤ、インドネシア、フィリピンの3国によって、マレー系民族が支配する統一国家「大マレー連邦」を樹立し、自らその盟主になろうという野望を抱いていたという。
 マレーシアにとって隣国インドネシアは、相対的には言語・文化も近く、同じイスラム国として親近感をもつ反面、2億人近い人口をもつ「大国」として軍事的脅威でもあり、また最近では経済水準の低いインドネシア側から合法・非合法を問わず数百万人単位で労働力が流入し、絶えず緊張関係を孕んだ存在である。インドネシア側のマレーシアに対する競争意識も強い。
 1965年にマレー系と中国系との民族対立が深刻化した結果、シンガポールが分離独立を余儀なくされた。これは、マレーシア連邦においてマレー人優位を認めず、すべての民族が「マレーシア人」として対等の権利をもつべきだと主張した中国系住民を、マレー系が「切り捨てた」という性格をもつもので、必ずしもシンガポールが望んだ形のものではなかった。
 その後現在に至るまで、マレーシアとシンガポールとの緊張・競合関係も存在してきたが、現実には両者の経済面における相互依存度はきわめて高く、人的関係においても、学校教育などを通じて旧知の存在が多く、単純なライバルという以上のつながりがある。近親関係にあるだけに、微妙な難しさがあるといえるだろう。因みにマハティール首相にしても、最終学歴はシンガポールにある医科大学で、同窓生にはシンガポール人が圧倒的に多い。
 いずれにしても、シンガポールの分離によって、中国系住民勢力の大半がシンガポールに集結して、マレーシアの政治的安定は確立されたかにみえた。
 しかし、シンガポールの分離以降も、マレーシアは、人口の約6割がマレー系だが、残り3割が中国系、1割がインド系その他で構成され、この主要3民族の平和的な均衡を保つことは、マレーシア国内における最大の政治・経済上の課題として今日に至っている。経済、商業などの分野では、中国系、インド系国民の力が強く、彼らなしでは日常生活が成り立たない社会構造になっている一方、マレー系国民の優遇策も強力に推進されてきているからである。
 1969年に起きた人種暴動事件を背景に、いわゆる「ブミプトラ政策」といって、先住民族を含むマレー系に対する優遇措置が国策とされ、マレー人の特権の保護が図られ、イスラム教が国教とされ、国語としてのマレー語優先、教育におけるマレー人優遇割当などが憲法上保証され、厳格に実施されている。このマレー人優遇政策は、当初第二代首相であるラザク首相によって開始されたものだが、その後第四代首相に就任したマハティール首相がこれをさらに強力に継承・推進して今日に至っている。マレー系国民は経済的な基盤が弱いため、真の意味での平等を達成するまでは保護政策が必要だというのが、この「差別政策」の根拠である。
 宗教的には、イスラム教が圧倒的に強いが、憲法上は信教の自由が保証され、ヒンズー教、仏教・儒教キリスト教も広く普及している。政体は形式上は国王(各州のスルタン=土侯が交代で選出される)による立憲君主国だが、国王の政治的権力はマハティールらによってほぼ剥奪され、象徴的存在でしかない。選挙による政党政治、議員内閣制が定着し、マレー系の統一マレー人国民組織(UMNO)、中国系のマレーシア中国公会(MCA)、インド系のマラヤ・インド人会議(MIC)の3大政党による連立与党組織である国民戦線、バリザン・ナショナル(BN)が圧倒的に強く、実質的には、独立以来UMNOの単独支配が続いている。その意味では政治的安定度は高く、首相の政権交代も歴代すべて平和的に行なわれてきた。
 なお、軍の政治への影響力が弱いことは特筆すべき点で、東南アジア諸国の中では、シンガポールと並んで軍事クーデターが一度も起きたことがない例外的存在でもある。その背景には、人前での争いを好まず、忍耐と服従を美徳とするマレー民族の伝統的文化があるとも言われる。

3) 経済の変遷―農業・鉱業中心から工業立国へと脱皮
 経済的には、60年代までは、鉱産物である錫と、農産物であるゴム、油ヤシというプランテーション作物に依存する典型的な一次産業中心のモノカルチャー依存国であった。それが70年代に入ると、「新経済政策(NEP)」のもとで輸入代替型の工業化政策が推進され、経済成長率は年平均8.6%、GDPに占める製造業比率は20%に達した。しかし、80年代に入ると、国内市場規模が小さく、かつ労働市場が逼迫し、「成長の限界」に出合う。
 1981年に政権に就いたマハティール首相は、従来の欧米一辺倒の政策を改め、日本および韓国などの成功に見倣えと、当時の状況としてはきわめて大胆な「ルック・イースト政策」を提唱した。そして、まず製鉄、セメント、自動車など、重工業の育成に取り組んだが、世界同時不況に襲われたこともあり、立ち上げに苦しむ結果となった。
 80年代半ば、深刻な不況に襲われるなかで、マハティール政権は、それまでの国内産業保護政策を軌道修正し、ブミプトラ政策に基づく外資制限を大幅に緩和し、公営企業を民営化する「民活路線」を打ち出した。この政策転換にあたっては、当時の在マレーシアの日系企業のトップが首相からの依頼によってまとめた提言が大きな役割を果たしたと言われる。とくに当時三井物産の支店長で、在マレーシア日本人商工会議所会頭である鈴木氏の功績はマハティール首相によって高く評価され、その後同氏は、日本人では二人目という、マレーシアの最高勲章である「タンスリ」の称号を受けるに至っている。
 この結果、円高シフトによって海外生産の拠点を求めていた建設業、製造業を中心とする日本企業が大量進出し、マレーシアは機械、電気・電子産業を中心とする製造業の拠点としておおきく発展し、現在ではGNPの35%を製造業が占める工業国へと「変身」を遂げた。
 こうしてわずか20年足らずで工業立国を成し遂げたことは、マハティール首相の指導力の源泉でもあり、国民に大きな自信と誇りを与えたのである。



2 工業立国から情報立国へ


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1)「工業化」の飽和と強まる周辺諸国の競争力
 アセアン諸国の中でも工業国への転換に見事に成功した優等生マレーシアだが、90年代に入ると、需給の逼迫による物価と賃金の上昇、労働力不足、景気の過熱、経常収支の悪化など、ふたたび経済成長のひずみが見られるようになっていった。そこで、従来の外資誘致政策が見直され、各種の優遇措置のなかには、撤廃ないし後退するものも出てきた。
 フィリピン、インドネシア、インドなどの追い上げが始まり、他のアジア諸国との競争が強まる。さらに、中国をはじめ、ベトナム、ミャンマーなども、通貨安、人件費などの低コストを武器に、外資を受け入れる開放政策に転じるにつれ、アジアの製造拠点としてマレーシアの地位は安泰とはいえなくなってきた。
 日本企業の間にも、生産性を上回る賃金コストの上昇、労働力の質と量の不足などの問題から、マレーシアでの採算性に限界感を抱き、拠点を撤退ないしは縮小し、他のアジア諸国へと移動する動きも出始めている。
 マレーシア側にとっても、製造業による輸出志向型の生産拠点を提供することで、工業出荷額は増加したものの、操業・経営の中核部分は依然として日本などの外国勢が支配し、技術移転を含む経営の現地化が十分には達成されていないという認識・不満がある。
 また、実際には完成品の単純組立工場の比率が高く、原材料、部品、半製品などは依然として先進工業国などからの輸入依存度が高いため、貿易収支の上では、輸出が増えても単純に黒字が増える構造にはなっていない問題がある。また、運輸、港湾などのサービス業も、国内産業の育成が遅れ、外国資本への依存度が高く、貿易コストの高さとなっている。

2)「情報化」を国づくりの中核に構想
 こうした状況を背景に、付加価値を生み出す源泉は、工場の機械設備や単純労働力にではなく、総合的な生産・流通システム、さらに、製品と技術の企画・開発力、マーケティング力など、それを動かす人間のノウハウ、技術の蓄積の上にあることが、産業界、政策当局者の間に認識されていく。
 さらに、21世紀社会へと向かう経済社会の流れが、従来の工業製品主体の産業経済から、情報技術の発展を原動力とした情報経済へとおおきく転換するとの見方が、世界的に強まってきた。80年代後半から90年代半ばにかけて、半導体の技術革新、パソコンの爆発、インターネットの急成長といった情報技術分野の爆発的な成長が起こり、それを背景にしたクリントン=ゴア政権によるNII(国家情報インフラ)/GII(グローバル情報インフラ)戦略の展開は、欧州、日本などの先進国はもとより、アジア、中南米などの途上国の経済発展政策にも大きな影響を与えるに至った。
 こうした流れを敏感に感じとったマハティール首相とそのブレーンらが、新たな政策目標として掲げたのが、「情報化」を軸とした国づくり構想の推進であり、その中核となる戦略プロジェクトがMSCなのである。その意味で、マレーシア政府およびマハティール首相にとって、MSCのもつ政治的な位置付け、政策上の優先度は非常に高いものがある。
 欧米各国も、GIIが世界的に広まるなかで、各国政府がそれぞれ情報化計画を政策として策定し、推進しているが、ほとんどが抽象的な政策に留まり、マレーシアのMSCのように、政府が全面的なコミットを表明し、物理的にも特定の地域を指定し、インフラ構築を含めて具体的な事業の推進施策をとっているところは、少なくともこれまでのところ他に例をみない。他国では、政治家の指導力がなくて議会を説得できなかったり、政府財政に余裕がなかったり、民間企業が同調しなかったり、あるいは政治家自身の構想力と実行力がなかったりして、実現したくても不可能なところがほとんどなのである。



3 MSC成立の経緯


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1) メガプロジェクトとコンセプトの国際コンペ
 1995年11月にMSC構想が発表される以前から、マレーシアにはいくつかの国家的な「メガプロジェクト」が存在していた。首都クアラルプール(KL)周辺地域だけをとっても、南40kmに立地する新国際空港(KLIA)、首相官邸を先頭に首都機能のうちの行政機能を全面移転する「分都」プトラジャヤ、競馬場跡地を再開発して高さ世界一のオフィスビル、ショッピングセンター、ホテルなどの複合施設を建設するKLCC(クアラルンプール・シティセンター)、98年秋開催予定の英連邦大会の主会場となる新国立競技場などの建設工事が相次ぎ、これらの関連道路、鉄道などを含めると、公共投資として建設工事に投入される予算は膨大なものがある。
 しかし、これらのプロジェクトの大半は、遅くも99年から2000年には工事が完了する予定で、政府発注の建設工事に期待する建設業界などの産業界から、「その後」についての不安や要望が存在していたのも事実である。
 マハティール政権は、2020年に先進国入りを宣言した「ビジョン2020」を実現するための具体的な国家戦略計画づくりに、1994年頃から着手していたものとみられる。その一環として、これまで個別に推進されていた上記メガプロジェクトを連結・拡張する企画についての検討が行なわれたといえる。
 1994年、内閣によって「全国情報技術評議会(NITC = National Information Technology Council)」が設置され、国が主導する情報化政策についての検討が着手された。その常任書記に任命されたのが、マレーシア電子システム研究所(MIMOS)のトゥンク・アズマン総裁(当時、MIMOSは96年に特殊法人化され、社長となっている)だった。MIMOSはそれまでは主として半導体やコンピューターソフトなど、情報技術分野の研究開発を主たる事業とし、社会政策の策定にあたった経験はなかったのである。
 しかし、アズマン総裁はあえてこれを引き受ける代わりに、マハティール首相とアンワール副首相にも、それぞれNITCの委員長と副委員長に就任するよう強く要請したという。こうして、国のトップ二人が出席するもとで、まず情報化についての「勉強会」から検討が始められたという。
 この検討過程で、大前研一氏の情報化ビジョンに強く共鳴したアズマン総裁らは、同年秋に同氏に本格的な構想を描くことを要請した。同様に、他の外国の著名なコンサルタント会社などに対しても、新首都機能、空港機能などの都市開発の戦略についての提言、提案を求め、その中には、米国のブーズ・アレン・ハミルトン社、マハティール首相とも親しく、新空港の設計コンサルタントでもある建築家の黒川紀章氏らのチーム、さらに大前氏と組んだマッキンゼー社なども含まれていたようである。  こうして、MSCはある種の非公開の「国際コンペ」を経て策定されたものといえる。この段階では、情報化への関心は強く存在していたものの、検討・提案の対象には広く環境技術、バイオ技術なども含められており、メガプロジェクトを連結する全体的な社会政策上の開発戦略の理念と、それに基づく都市開発上の具体策が求められていたものと考えられる。
 1995年春頃には、これらのコンサルタントらからの提案が出そろい、NITCのメンバーをはじめ、主要政府機関やマレーシアを代表するシンクタンクである国際戦略研究所(ISIS)のノルディン・ソルピー所長らの間で、社会・経済・政治的な面からの影響などについての分析・検討が進められた。この段階で、大前氏らからの提案を基本に「マルチメディア」を主要コンセプトとして採用することが正式決定され、95年夏には短いレポートができ上がったようだ。ここで初めて、新都市開発計画として、新空港と新都心KLCC地区を結ぶ一帯を総合的に開発し、その全体を貫くキーワードに「マルチメディア」を採用し、情報技術関連産業の誘致集積とそれによる人材の育成、既存産業への情報化導入を戦略的に推進するというMSCの概要が固まった。
 なぜマレーシアが大胆な実験に踏み切ったのか。過去20年足らずで農業国から工業国へと仲間入りをしたマレーシアが、21世紀の経済成長のシナリオを描いたところ、情報技術で立国する以外に選択がないということを国の指導部が認識・理解したからだという。

2) MSC構想の公表
 95年8月、プトラジャヤ計画を説明するマハティール首相の議会演説の中で、「MSC構想」ははじめて一般に披露された。続いて開催されたプトラジャヤの起工式の席上で、マハティール首相自らがMSC計画について触れ、記者会見でも具体的な質問に答えたという。
 さらに、同年11月1日、マハティール首相はMSC計画の概要について正式発表を行ない、コンピューター、通信、放送産業を構成するハード、ソフト、システム、コンテンツの一流先端企業群を世界中から誘致し、21世紀に先進国入りをめざすマレーシアの中核産業を発展させるとアピールした。なお、この時点ではMSC地区の大きさは、新空港KLIAとプトラジャヤを含む南北40km、東西15kmであった。
 翌1996年1月30日、インターネットに氾濫するポルノ情報などへの懸念が世界的に高まる中で、マハティール首相みずから敢えて「インターネットによるグローバルな情報の流れを政府が規制することには限界があり、MSCではインターネットの政府による検閲はせず、個人の自主的な判断に委ねる」と述べた。これはシンガポール政府がインターネットへの検閲の必要性を打ち出したのとほぼ同時期であり、その後の海外企業、とくに米国企業の進出計画に大きな影響を与えることになった。
 96年4月2日、NTTの宮脇副社長がクアラルンプールを訪問した後に、「NTTはMSC計画に参加し、研究開発拠点を構築する」と正式に発表した。
 96年8月、「マルチメディア・アジア96」というイベントの冒頭で、マハティール首相の基調講演によって、MSC計画は初めてその詳細な概要が発表された。この時点で、MSCは単なる都市開発プロジェクトではなく、「マルチメディア権利保証章典」、「サイバー法」を柱とする社会制度についての政策上の保証と、「フラグシップ・アプリケーション」による政府・民間分野にまたがる社会実証型アプリケーション実験の推進も含めた、きわめて野心的なかつ包括的な計画であることが初めて明らかにされ、国際的にも大きな反響を呼ぶようになった。このときマハティール首相によって、MSC地区は、南北の距離を50kmに変更された。それは一説によると、そうすることでシンガポールの国土面積を上回るからだという。
 この間、マレーシア側の関係者に、大前氏およびマッキンゼー社に加え、NTTも正式にプロジェクトチームに加わって、MSC計画の「マスタープラン」の作成作業が進み、96年10月に最終案がマレーシア政府に提出され、正式に承認されるに至った。



4 MSCの目標と指導理念


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1)「ビジョン2020」と「Mutual Enrichment」
 MSCは明らかにビジョン先行型のプロジェクトといってよく、その指導理念には、マハティール首相自身の個性と意志が強く反映されている。その意味で、MSC構想の源泉とその成否がマハティール首相のもつ理念と政治力におおきく委ねられていることは否定できない事実である。
 MSC全体の目標は、1991年に首相自ら提唱した「ビジョン2020」、すなわちマレーシアを2020年までに先進国の経済水準に到達させるという大胆な計画の実現の触媒役を果たすことに置かれている。世界規模で本格的な情報社会が到来することを予期した上で、21世紀のマレーシアを、これまでの工業化主導型の経済社会から、情報化による付加価値の創造を原動力とする情報化主導の経済社会へと脱皮させる戦略の実現がMSCの基本的な位置づけである。
 現在、世界的にみても、発展途上国の指導者の中で21世紀のはじめに先進国入りを実現させると具体的に明言している指導者は、マハティール首相くらいしか見あたらない。1981年以来17年と長期政権を維持し、72歳になってなおエネルギッシュに活動するマハティール首相ならではの大胆な挑戦である。
 マハティール首相がMSCに託する理念のなかでもっとも注目すべきなのが、「共に豊かになること = Mutual Enrichment」であろう。96年8月、MSCを世界にはじめて本格的に発表した「マルチメディア・アジア'96」の冒頭の基調講演で、マハティール首相はこの考えをとくに強調し、アセアン諸国を中心とする東南アジア諸国はもちろん、先進国である欧米や日本にも、政府・民間企業の別なく、ともに共同して取り組むことを強く訴えた。
 この背景には、人口2100万人と東南アジアの中では相対的に小国で、人的資源の面で十分ではないものの、マレー系、中国系、インド系その他による複合民族国家として成立して成功しているマレーシアのポジショニングを意識した戦略が存在している。華人国家としてのシンガポールは、東南アジアの繁栄の頂点に立っているが、タイ、インドネシア、フィリピン、ベトナム、ミャンマーなどの近隣諸国には、華人の経済・文化的支配に対しては、伝統的に強い反発と警戒がある。その意味では、周辺国にとってマレーシアの方が親近感が強く、隣国との共生を提唱してもシンガポールより受け入れられやすい要素が強いといえる。また、経済的にきわめて豊かになったシンガポール人の「生活感覚」が、周囲の諸国の人々と合わないという指摘も出ており、事実、社会的な摩擦も様々に現れている。

2) 欧米先端産業への接近 ― 「ルックイースト」の転換
 MSCを支える理念のもう一つの大きな特徴は、欧米の先端産業を積極的に誘致し、その技術と経営資源を自国に取り入れようという姿勢である。MSCを推進する使命に燃えるマハティール首相は、97年1月から連続して「海外キャンペーン」に出かけた。最初の訪問先に米国を選び、ハリウッドのお膝下であるロサンジェルスのUCLAと、シリコンバレーの中心スタンフォード大学で、MSCの理念と価値を訴える「投資家会議」を開催し、米国のディジタル・テクノロジーおよびマルチメディア・コンテンツ分野の先進企業の進出・協力を強く呼びかけた。
 ビル・ゲイツとは個別に会談した他、サン・マイクロシステムズ、オラクル、ネットスケープなど、シリコンバレーの代表的ハイテクベンチャー企業のトップ経営者らを招いて「ブレーンストーミング」を行なうなど、MSCを成功させるために、米国経済の成長の原動力であるハイテク産業の経営者たちから学ぶという姿勢を明確に打ち出した。日本からもソニーの出井社長、ソフトバンクの孫会長らが駆けつけた。一国の首相が、特定地域の経済開発プロジェクトへの誘致宣伝だけを目的に外国を訪問し、参加協力を要請することは、大変異例なことである。
 マハティール首相は、米国の帰途日本に寄り、NTTと共同で経団連を構成する主要企業に対する説明会を開催し、日本の電子・情報産業に対してMSCに関心をもち、参加するよう強く呼びかけた。さらに、中堅・中小のソフトハウスから成る日本パーソナルコンピューター・ソフトウェア協会との共同討論を行ない、起業家精神をもつ日本のソフト・ベンチャー企業がMSCに積極的に立地・参加することに大きな期待を表明した。
 97年5月には英国ロンドンを訪れ、ヨーロッパのハイテク企業のCEOを数百名も集める投資説明会を開催してMSCの魅力を訴え、その後もアフリカ(南アフリカ、ジンバブエなど)、中南米(キューバ、コロンビア、ウルグアイ、ペルー)、ハンガリー、スロベニア、カナダなど、相次ぐ外国訪問を行なっては、MSCを首脳外交の武器として積極的に売り込みを続けている。
 これらの訪問には、連邦政府の主要閣僚、地方政府の知事らに加えて、国内産業界のトップ経営者も毎回多数参加し、首相立ち会いのもとで、海外有力企業との提携・協力関係を構築することが大きな目的となっている。
 マハティール首相といえば、欧米ではなく、日本や韓国などの東アジアの成功に学べという「ルック・イースト政策」を主唱し、シアトルで開催されたAPEC(アジア大平洋経済共同体)の第一回首脳会議には、自らが提唱するアメリカ抜きのEAEC(東アジア経済会議)の理念に対立するとして、参加を拒否した過去をもつ。シンガポールのリー・クアンユー上級相とともに、「アジア的価値観」の独自性を打ち出すことで、米国など欧米先進国主導での政治経済体制の構築に強く抵抗してきた実績がある。また「南南協力」の重要性を唱え、中南米、アフリカなどの途上国同士の経済協力を重視し、第三世界を代表する指導者として評価の高い人物である。
 そのマハティール首相が、米国経済の新たな中心地、情報技術・企業革新のメッカであるシリコンバレーと、映像文化・コンテンツ産業の盟主ハリウッドに自ら乗り込み、MSCへの誘致を行なったということは、「ルックイースト」に集約される従来の政治姿勢をおおきく転換した象徴的事象といわなければならない。その背景には、これまで工業化政策の推進モデルとして採用してきた日本や韓国などの東アジア諸国がいまや勢いを失いつつあり、新たな勃興を見せる米国の先端産業から学ぶことが戦略的にどうしても必要かつ有効だという大胆な洞察が存在することも事実である。

3) アセアン諸国にも大きな影響
 他の東南アジア諸国の首脳も、こうした歴史的な流れを踏まえて打ち出されたMSCには関心をもたざるをえない。シンガポールONEで対抗するシンガポールはもちろんのこと、それぞれ独自の「IT2000」計画をもつフィリピン、インドネシア、タイ、ベトナムなどのアセアン諸国でも、マハティール首相がことある度に、経済発展にとって情報産業がもつ戦略的な重要性を強調していることの影響は大きい。
 東南アジアのみならず、MSCには世界中の注目が集まっている。ハンガリーの首相、南アフリカの大統領、イギリスの貿易産業大臣、日本の郵政大臣、シンガポールの外務大臣と、各国要人が続々と現地に視察に来ている。インターネットの世界大会であるINET97も、クアラルンプールで開催された。
 97年5月に行なわれたサイバージャヤ起工式で、マハティール首相はこう語った。「未来の情報社会がどんな社会になるかは、だれもわからない。半導体の性能が18ヵ月で2倍になることは、誰も予測できなかった。科学技術の進化は予測困難なのだ。そこで、マレーシアは本当の意味での『実験台』を全世界に提供することにした。それがMSCだ。間違いも数多く起きるだろう。でも小さな区域内に限定すれば問題はない。それでも、ここは人々が実際の生活の場として働き、暮らす場なのだ」と。
 こうして、MSCは単なるマルチメディアの社会実験プロジェクトの枠を超え、新しい経済発展、ひいては21世紀型の国家形成のプロトタイプとして、マレーシアの戦後の歩みの総決算ともいえる重みをもったプロジェクトとして遂行されようとしている。
 誤りを犯すことをいとわず、大胆にチャレンジし、未来を創ろうとする姿勢は、マレーシア人一般のものというより、マハティール首相の強烈な個性によるものといえるだろう。
 しかしそういう首相の姿勢を支持し、共にプロジェクトを実現しようとするのもマレーシア人であり、MSCは彼らの誇りにもなっている。さらに、これに共鳴する各国の人々が存在している。シリコンバレーでの熱狂的な受け入れ、ヨーロッパでも投資家会議での評価の高さはその現れだ。
 MSCは、まさにグローバルな潮流のなかで存在が可能となったプロジェクトでもある。日本もNTTが当初から戦略的に深くかかわっており、日本に対する期待もそれだけに高い。



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