第5章 MSCを構成する主な人物と組織


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 MSCの実現・推進に際して重要な役割を果たしている主な人物および組織について、以下に概観してみた。


1 マハティール首相


 MSC構想の生みの親であり、最大の推進力でもあるのが、マハティール・モハマド首相であることは誰も否定できない。彼の存在なしにMSCはありえず、同時に、彼の政治的影響力にとっても、MSCは欠かせない存在となっている。

1) 強烈な個性とユニークな政策構想力
 マハティール首相は1981年、マレーシアの第4代首相に就任して以来、17年間にわたって政権の座にあり、アセアン諸国のなかではインドネシアのスハルト首相に次ぐ長期政権を維持し、その強烈な個性とユニークな政策構想力によって、アジアを代表する政治指導者として自他ともに認める存在である。
 マハティール首相は、周囲の通念とは異なる大胆な自説を展開することが得意である。古くは欧米一辺倒の価値観に逆らって「ルック・イースト」を提唱したり、最近では、東アジア経済共同体(EAEC)を提唱して米国主導型の経済支配に抵抗し、APECの首脳会談にアジア諸国でただ一人参加しなかったり、通貨価値の下落に際して、「国際投機家の陰謀」説を強く展開してジョージ・ソロスを名指しで非難したりするなど、その言説は際だっている。
 MSCの提唱でも同様である。ディジタル革命の潮流を語る政治家は、ゴア米国副大統領などすでに存在していたが、マハティール首相ほど大胆に、実際に実現される国家プロジェクトのレベルでその潮流を取り入れようとした政治家はいなかった。
 こうした彼の個性なしにMSCを理解することはできない。すでに72歳という年齢に達しているだけに、健康不安その他でマハティール首相が退任することにでもなれば、MSCが果たして継続されるかという不安がしばしば表明されているのも当然といえば当然である。いまのところ健康状態は悪くはないが、96年5月に2カ月間の「ワーキングホリデー」をとった際に健康不安が噂されたほか、11月にも風邪で数日間静養し、予定されていたカナダ訪問のうちMSC関連の日程はキャンセルするなど、不安要素もまったくないわけではない。

2) 第4代マレーシア首相としての歩み
 長期政権を維持してきたマハティール首相だが、実は政権の歩みは必ずしも平坦なものではなく、何回となく重大な危機に直面してきた。しかし、マハティール首相は、危機の度にかえって傑出した危機管理能力を発揮し、ときに党内ライバルを蹴落とし、ときに国王やサルタンなどの伝統的な支配勢力の力を削ぎ、ときにイスラム勢力を抑え、かえって政権基盤を強化してきたのである。
 マハティール首相は、1925年、北部ケダ州の州都アロースターに、インド系イスラム教徒で移民一世の英語学校校長の父と、マレー系の母との間に、9番目の末子として生まれた。マレー語の小学校、英語のカレッジに進んだ後、日本軍占領時代には、日本語学校に通ったり、コーヒーショップを経営してビジネス経験も積んだという。戦後はシンガポールのエドワード医科大学で医学を学んでいる。
 この時期までに、植民地支配に抵抗するマレー人としての自覚をもち、政治活動を始めている。1953年に医科大学を卒業したマハティールは、56年に、同級生で、マレー人女性として二番目の医学博士となったクラン出身のシティ・ハスマ・アリと結婚している。
 後に、マレー人の保護政策、「ブミプトラ政策」を主張してきたマハティール首相だが、実は純粋マレー系ではなく、父祖にインド系の血をもち、シンガポールで学んだ経験をもつことは、彼のバランス感覚の根拠としても注目される。ただし、インド系といっても、マレーシアで多数を占めるヒンズー教徒ではなく、イスラムである。
 1969年の選挙で落選したマハティールは、選挙直後に起きたマレー系と中国系の人種対立による暴動、5月13日事件の際に、独立以来の首相であるラーマン首相の弱腰姿勢を強く批判しその辞任を求めた。これが「独立の父」で、穏健な人種融和政策を進めてきたラーマン首相の逆鱗に触れ、マハティールは「過激派」のレッテルを貼られ、UMNOを除名された。
 マハティールは、いったん故郷アロースターに帰って医院を開業し、貧しい村民たちの診療に精力を注いだという。この医者としての現場経験も、政治家マハティールに厚味を与えたものと言えるだろう。
 1970年、マハティールは、マレーシアにおける人種対立の根本的な原因とその解決策を分析した『マレー・ジレンマ』という著書を刊行した。マレー人の貧困からの解放には、「建設的保護」が必要だと説く同書は、ラーマン政権によって即発禁となるが、シンガポール経由で流入して多くのマレー人に読まれ、隠れた影響力をもつに至った。
 ラーマンは人種間の調和、民族間の協調を政治哲学とし、5月13日事件は共産主義者と秘密結社、そして極端な人種主義者による煽動の結果起きたものととらえていた。一方マハティールは、マレー人が血族結婚などの結果遺伝的に劣っているとしつつ、土着のマレー人が主として農業に従事したのに対して、移住してきた中国人が商工業を支配し、その結果マレー人の貧困の源として植民地支配に加えて中国人との経済格差の存在をあげ、真の平等を達成するためには、マレー人を保護優遇する必要があると説いたのである。
 さらに、同書では、マレー人、インド人、中国人の価値観、倫理、歴史・文化的な分析を行ない、マレー人の封建的な価値体系と安易な生活態度が、マレー人の地位の向上を妨げているとして、その自己変革をも求めた。
 ただし、今日のマハティール首相は、同書には一部誤りがあったとして、好んで同書の思想を強調しようとはしない。同書で「マレー人は遺伝的に劣っている」と決めつけた部分は、マレー人の誇りを傷つけるもので、現在のマハティール首相はけっして口にしたくない発言だと思われる。
 1970年、引退したラーマン首相に代わってラザク政権が発足したが、ラザク首相はラーマン政権後半の副首相時代から、イスラム教を国教に、マレー語を公用語にそれぞれ定め、マレー人および先住民の権利を保護するなど、経済と文化の面でのマレー人優遇政策を進める、いわゆる「ブミプトラ政策」を推進し始めていた。
 この政策は、『マレー・ジレンマ』に描かれたマハティールの指摘を追認するもので、在野のマハティールの主張が多くのマレー系国民の評価・支持を得ていたことを物語る。事実、ラザク首相は1972年には早くもマハティールをUMNOに復権させ、74年には主要ポストである教育大臣に登用した。76年には、マハティールは副首相に選出され、78年には通産相を兼任するに至り、与党の実力者としての地歩を固めていった。

3) 首相就任直後に「ルック・イースト」を提唱
 1976年、ラザク首相は53歳の若さで病気により急死し、UMNO立党の立役者の子息でもあるフセイン副首相が第三代首相に就任した。その後1981年7月、病気を理由に引退したフセイン首相に代わって、マハティール筆頭副首相が第四代首相に選出された。
 マハティール新首相は、同年12月には早くも「日本や韓国の経済発展様式はマレーシアにも適合するもので、両国を代表とする東アジアの価値観からも学ぶことで、西欧的なものとアジア的なものとのバランスのとれた発展をめざそう」と主張し、後に「ルック・イースト」政策と呼ばれるようになる新しい方向性を打ち出した。
 東南アジアの旧植民地国の国づくりにあたっては、宗主国であった西欧諸国や米国に模範を求めるのが一般的で、もっとも優秀な学生は英米に留学し、帰国後エリートへの道を歩むのが当り前とされ、それをだれも疑おうとはしなかった。現在ならまだしも、この時点で「日本や韓国から学ぼう」というのは、「クレイジー・アイディア」だというのが一般の受け止め方だった。この一件でも、マハティール首相の時代を見る眼力の高さと周囲の言説にも自説を曲げない頑固で強烈な信念が明らかに見てとれる。
 この結果、82年から84年にかけて日韓両国の建設資本が大量に進出し、社会問題ともなった。しかし、ルック・イースト政策の骨格は変わらず、83年、日本への公式訪問から帰国したマハティール首相は、「日本株式会社」に範をとった「マレーシア株式会社」構想を提唱し、官民の協力による急速な工業化、国有企業など政府組織の民営化などを推進した。その代表事例が、三菱自動車との提携による国民車プロトン・プロジェクトである。
 マハティール首相は、日本の戦争責任の問題でも、「いつまでも謝罪を続ける必要はない。もっと前向きにアジアの発展に協力すべきだ」と説き、東南アジア諸国に根強い反日感情を和らげ、日本の経済面でのアジア市場への進出を政治的に認めるという大きな役割を果たしてきたといえる。

4) 1985年の経済大不況と外資誘致への政策転換
 1970年代から84年まで、マレーシア経済はヤシ油などの伝統的一次産品に加えて、電子部品を主体とする工業製品の輸出増加もあって、順調に発展してきた。
 しかし、85年に襲来した世界同時不況により、まず一次産品の相場の暴落によっておおきな痛手を被り、その上IC輸出も不振となって、85年には実質経済成長率マイナス1%と、建国以来のマイナスを記録するに至った。
 この深刻な経済危機のなか、マハティール首相は、それまでの自国企業保護を優先してきた経済政策の大胆な転換を図り、積極的な外資誘致政策を導入したのである。当時の東南アジア・アセアン諸国では、発展途上国として自国産業の保護を優先し、外資規制はもちろん、耐久消費財などへの高額の輸入関税を課するのが一般的だった。
 円高に苦しんでいた輸出志向型の日本企業は、このマレーシア政府の推進する外資優遇政策に乗って、タイと並んで、製造業を中心に大量にマレーシアに進出した。その結果、1996年末現在の日本からマレーシアへの進出企業は、メーカー、部品会社を中心に、1,307社にのぼり、うち56%(737社)を製造業が占めている。製造業の内訳では、電気・電子産業関連企業が4割強で、そのサポーティング・インダストリーを加えると6割を超えると推定される。とくに、松下グループの進出は際だっており、その年間売上高はマレーシア全体のGNPの4%以上に達していると言われているほどである。
 これらの日系企業をはじめとする外資系企業が進出するにつれて、マレーシアは製造業による輸出型産業を確立し、雇用が増大し、対外貿易も増加して、経済の立て直しに成功したのである。

5) ビジョン2020の提唱
 外資優遇策が奏功した結果、不況を乗り切ったマハティール政権は、長期安定政権の様相を高め、1991年に「ビジョン2020」(マレー語で「WAWASAN2020」)という、21世紀の2020年に世界の先進国に追いつくとの大胆な長期ビジョンを発表した。
 これは、
 1)統一したマレーシア民族の形成
 2)心理的に解放され、安定し、発達した社会をつくる
 3)成熟し、合意を基礎とし、コミュニティに根差す民主主義を発展させる
 4)道徳的、倫理的社会をつくる
 5)多様な民族からなるマレーシアの人々が、それぞれの生活慣習、宗教、
   文化を守りながら、一つの国民としての帰属意識をもつ
 6)科学的・進歩的な社会をつくる
 7)強い家族制度を軸とする思いやりのある社会と文化をつくる
 8)経済的に公正な社会をつくる
 9)競争力の高い、ダイナミックで強靭な経済をつくる

 という9点からなる戦略課題を掲げたものである。

 そして、引き続きブミプトラ政策を推進するとともに、2020年まで、10年毎にGDPをほぼ2倍に伸ばすことを目標に掲げ、年率7%の経済成長をめざした。このビジョン2020は、それまで10年間にマハティール政権が推進してきた政策の集大成といえ、大々的に宣伝されている割には、その実現手段として新規性のある施策は少なかった。
 そこで求められる、いわば「目玉」となる政策こそが、96年に登場したMSCであると言えるだろう。このMSCによって、ビジョン2020は、単なる抽象的なビジョンの域を脱し、より実現性の高い具体的な政策、施策として展開できるようになったのである。そこで、MSCは、現在数あるマレーシアの政策のなかでも最優先で推進される施策となり、その政治的重要度はマハティール政権の威信がかかっているほど高いといって過言ではない。

6) MSCにかける強い熱意と信念
 それだけに、マハティール首相のMSCの成功にかける熱意と信念は尋常のものではない。MSCについては、機会ある度に自ら先頭に立って「布教」を進めている。たとえば96年4月の日本経済新聞クアラルンプール支局開設パーティーの席上では、とくにMSC関連の行事でもないにもかかわらず、そのスピーチの大半をMSCについての発言で終始したことにもそれは現れている(本報告書付録に収録)。
 MSCの当初段階では、毎週首相官邸で定期的に関係者によるミーティングが開かれていたという。97年になってからは、MSCを外国に売り込むミッションを率先して組織し、米国西海岸(ロサンゼルス、シリコンバレー)、日本、英国での投資説明会をはじめ、アフリカ3カ国、ハンガリー、中南米諸国などへの外遊でも、常にMSCを積極的に取り上げ、企業進出を働きかけ、企業同士の商談をまとめては提携調印式に出席するなど、優先順位のトップには常にMSCが置かれている。
 一説によると、首相の自宅にもパソコンが置かれ、首相は自らしばしばインターネットにアクセスしてネットサーフィンを行なっているという。その結果、政府内部では高官から幹部職員まで、パソコンを購入・利用することは一種の流行になったようだ。トップの姿勢についていけなくては、出世にも響くからだ。
 首相はテクノロジー製品を自ら操作することが大好きと言われ、国産初のスポーツカーの試乗では自らハンドルを握って高速でテストコースを飛ばしたほどで、ジェット戦闘機や潜水艇でもコックピットに座ろうとする。
 情報技術(IT)全般の重要性については、1994年、MSCの検討を行なう母体となった国家情報評議会(NITC)の発足の頃には、まだ自分では深く理解していなかったようで、それほど積極的な姿勢はみせていなかったという。しかし、同評議会での検討が深まるにつれ、首相自身が猛勉強をしたようで、わずか数カ月で情報技術とその社会的影響などについて、自分の言葉でしっかり語れるようになったという関係者の証言がある。

7) アセアン諸国への影響力
 アセアン諸国は、マハティール首相がMSCを通してマレーシアの情報化に賭ける勢いに強い影響を受けている。もともとマハティール首相は、国際政治の舞台ではスタンドプレーとも言える大胆な姿勢を貫き、ミャンマーのアセアン加盟問題などでも指導力を発揮してきた。MSCの推進にあたっても、前述したように隣国との共生「Mutual Enrichment」を強く打ち出し、小国マレーシアを意識して、周囲との調和にも配慮する姿勢をみせている。
 シンガポール、インドネシア、フィリピンなど、周辺諸国の指導者はいずれも、こうしたマハティール首相の政治姿勢を評価すると同時に、強いライバル意識をもち、MSCについてもそれぞれ対抗する情報化計画の推進に乗り出そうとしている。この点もMSCのもつ大きな特徴である。
 シンガポールでは、海外企業の地域統括本部(OHQ)がマレーシアに流出することを防ごうとして、シンガポールONEを立ち上げ、あらためて投資優遇政策を打ち出した。また、マハティール首相は「インターネットの検閲はしない」と発表して、シンガポールの強硬な規制政策を巧みに批判したが、シンガポール側もその誤りに気がつき、97年後半には規制政策を大幅に緩和したのである。
 インドネシアでは、スハルト首相が病気がちで引退を噂されるなか、情報化計画として、明らかにMSCを意識した「NUSANTARA21」構想を提唱し始めている。ベトナムでも、シンガポールの政策も参考にしつつ「IT2000」計画を発表している。フィリピンでも、スービック湾地域の再開発に情報関連産業を中心に据える構想が進められている。
 日本も例外ではない。とくに、沖縄の経済振興政策の企画立案にあたって、経済特区構想が浮上し、情報通信についてMSCを参考にしようという動きがある。96年11月には太田知事がマレーシアを訪問し、MSCを視察している。97年4月には、堀ノ内郵政大臣も視察に来てマハティール首相と会談し、協力協定を結んでいる。
 他の地域でも、MSCに学ぼうと視察に訪れる例が続いている。とくに、九州地域は地理的・経済的にアジア諸国との交流推進の機運が強く、97年には福岡県や大分県などから情報化を中心とした経済視察団が相次いで来訪している。これらはいずれも、マハティール首相の指導力とその実現形としてのMSCに学ぼうというもので、「ルック・イースト」の提唱から10数年が経過して、反対に日本が「ルック・マレーシア」を始めているのは興味深いといえる。

 こうしてマハティール首相は、次世代ビジョン「ビジョン2020」とその骨格としてのMSCとをセットで提唱することによって、72歳と、アセアン諸国の政治指導者のなかではすでに高齢の域に達しているにもかかわらず、依然として第一線で強い影響力を保っている。後継者がだれになるにせよ、マハティール首相の敷いた路線を、少なくとも当面は継承することはまず間違いないだろう。



2 アンワール副首相


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1) 政府批判で頭角を表す
 だれもが注目するマハティール首相の後継者として、第一にあげられる候補者が、現在副首相兼大蔵大臣のアンワール・イブラヒムである。彼はまだ50歳という若さだが、アジアの次世代指導者として国際的にも注目されつつある。
 アンワール副首相は、学生時代にはベトナム反戦運動にも参加し、イスラム青年運動(ABIM)の指導者として頭角を表し、政府に対しては強い批判活動を展開して有名になった人物である。1947年、UMNO職員を父にペナンに生まれたアンワールは、マラヤ大学マレー語科に進み、大学在学時代から全国ムスリム学生連盟(PKPIM)の会長になるなど、政治活動に参加していった。1970年、PKPIMを前身として結成されたABIMでは広報担当を勤め、ついで書記長となり、1974年から82年までは会長を勤めた。
 この間、74年には農民デモに参加して逮捕され、国内治安法により22カ月間拘禁された経験をもつ。釈放後もラザク政権には批判的姿勢を貫き、エリート層、支配層を鋭く攻撃したのである。こうした活動の結果、青年時代のマハティール首相同様、一時は「過激派」のレッテルを貼られ、今でも親イスラムとの見方が強いが、けっして保守的な原理主義者ではなく、むしろイスラム近代化改革路線を推進しているといえる。

2) マハティールの後継者?
 1982年、総選挙を控えたマハティール首相は、アンワールを与党UMNOに取り込んだと突如発表した。政府を批判してきたイスラム青年運動の指導者からのこの転身で、アンワールは「裏切り者」とさえ呼ばれた。選挙に当選したアンワールは直ちに副大臣のポストを与えられる異例の処遇を受け、マハティールからの信任の厚さを示した。
 その後、1988年には総裁選挙をきっかけに与党内の対立が深刻化した。このときマハティール首相兼内相はあらゆる集会を禁止し、与野党の政府批判勢力の指導者100名以上を次々に逮捕し、政府に批判的な新聞を3紙発禁処分にした。マハティール首相の力の政治家としての一面をみせた事件である。与党内部の対立は修復不可能な次元に進み、UMNOはついにマハティール首相を支持する新UMNOと、ラザレイ前通産相の率いる「46年精神党」とに分裂するに至った。
 これらの抗争を通して、アンワールは終始マハティール支持の姿勢を堅持してきた。マハティール首相のライバルが次々に失脚していくなか、アンワールは教育相、副首相と、順次重要ポストを獲得し、先輩政治家を追い越して党内ナンバーツーの座を確実なものとしていった。
 1994年、いったんはマハティール首相の後継者としての地位を確保したとされたアンワールだが、秋の党大会でマハティール首相が突如「このなかに裏切者ユダがいる」と言明し、その座が揺らいだかと一時大騒ぎになった。事実、マハティール首相は、現時点に至るまで、アンワール副首相を後継者として名指しで正式指名したことはなく、ヒントを与えるだけで、本心はだれにも明かしていない。現役の政治家がいったん引退を表明し、後継者を指名したが最後、「レイムダック」化し、影響力を失うことを、マハティール首相はよく知っているからだと思われる。
 しかし、副首相兼蔵相としてのアンワールの地位は、与党内でも副総裁として抜きん出たものであり、最有力後継者候補であることは疑いない。
 1997年5月、マハティール首相がアフリカ3カ国訪問で不在中に、「首相は長期休養をとり、首相代行にアンワール副首相が指名される」との未確認情報が突然流れ、国内は騒然となった。マハティール首相の引退表明が近いという観測まで流れたのである。8月のアセアン会議でカンボジア、ベトナム、ミャンマーの加盟が決まるのを「花道」に、シンガポールのリー・クアンユー前首相と同様の、「上級相」に引退して、後継者としてアンワールを首相に指名した上で、「院政」を執くとの観測も強まった。
 この噂は、翌日帰国したマハティール首相が、「ワーキングホリデーをとるだけで、引退など考えていない」と否定したことで、いったんは収束した。それでも、アンワール副首相は、首相が外遊で不在の間中、無難に首相代行をこなし、後継者としてのテストには合格したと見られるようになった。とくにタイから始まった通貨危機、経済危機に際しては、大蔵大臣としての職務もあって、政府の経済政策の取りまとめに実力を発揮していった。
 マハティール首相が、ジョージ・ソロス氏を筆頭とする国際投機筋の陰謀を強く非難し、香港で開かれたIMF・世銀総会の冒頭で、投機目的の通貨取引の禁止をするよう求めたのに対して、アンワール副首相はすぐに、「KLの通貨市場を規制する予定はない」とこれを否定して市場の動揺を抑える努力をするなど、両者の間には微妙な政策の相違があることが観察されている。同様に、バクーン水力発電所など自らの威信を賭けた大型プロジェクトの続行に執念を燃やすマハティール首相に対して、アンワール副首相は、自らのイニシアティブによって緊縮予算を発表する姿勢を印象付け、経済界などからの支持が高まっている。消息通の間では、なかば公然と「マハティール派とアンワール派の対立」とか、「某氏は副首相系だ」といった観測が語られる。
 しかし、マスコミなどの取材に対して、アンワール副首相は、「マハティール首相とは、年齢もおおきく離れていて、スタイルの違いがあるのは当然だが、基本政策での相違はまったくない」と繰り返し表明し、首相への忠誠を誓い、路線の違いについては明確に否定している。

3) 経済運営能力に高い評価
 いずれアンワール副首相がマハティール首相の後継者として首相になるのは、ほぼ間違いないと見られる。政治の世界はよく「一寸先は闇」と言われるが、マレーシアに限っていえば、初代のラーマン首相から第4代のマハティール首相に至るまで、歴代首相はいずれも平和裡に政権交代を行ない、すべて当時のナンバー・ツー、副首相が首相に昇格してきた歴史がある。前述のように、歴史的に軍部の政治への関与は少なく、軍事クーデターが皆無なのも、東南アジアではシンガポールとならんで珍しく、マレーシアならではの特徴である。それだけアンワール副首相の昇格の可能性も高い。ただし、ライバル政治家としては、ナジブ教育相やマハティール首相と同郷のケダ州のサヌシ・ユニド主席大臣らの名前も上げられている。また、次期首相の有力候補と目され、アンワールに次いで与党ナンバー3の地位にあったスランゴール州のマハマド・ダイブ氏が、97年4月に汚職疑惑が発覚して失脚したことも、アンワール昇格説を強める材料となっている。
 アンワール副首相は、96年に初の著作『アジア・ルネッサンス』を著し、イスラム文化の復興をベースにしながら、原理主義とは一線を画し、近代的なイスラム思想が普遍性をもつと説き、次世代指導者として求められる独自の政治理念を打ち出している。
 アンワール副首相は、青年時代の過激なイメージが依然つきまとい、平易な言葉遣いながら巧みに言説を展開するマハティール首相の根強い国民的な人気と比べると、人心をつかむ上では苦労している。しかし、97年夏以降の経済危機への対処にあたっては、マハティール首相が強気の発言を繰り返す度に通貨と株式市場が急落して国民から批判も出たのに対して、アンワール副首相は、国際社会に対してバランスのとれた発言を繰り返し、経済危機の収拾に指導力を発揮してきた。これによって、国内外からその経済運営能力に高い評価が寄せられ、次期首相への呼び声はさらに高まったと言われている。

4) アンワール副首相とMSC
 MSCについては、マハティール首相に忠誠を誓う立場から当然といえば当然ではあるが、アンワール副首相も全面推進の立場をとっている。筆者は、95年1月にMIMOSの主催で開かれたプライベートなセミナーにスピーカーの一人として招待され、インターネットの社会的影響をテーマとしてプレゼンテーションを行なったのだが、その際の主賓がアンワール副首相であった。情報社会の動向について熱心に学ぼうとする副首相の姿勢には、印象深いものがあった。
 マルチメディア・アジアやサイバージャヤの起工式など、MSC関連の主要イベントでも、マハティール首相とならんでアンワール副首相はしばしば姿を見せている。  72歳になるマハティール首相がいつどのような形で「引退」するのかは予測がつかないが、アンワール首相が実現すれば、少なくとも当初はマハティール路線の延長を図ると思われ、MSCについても、大きな変更なく推進していくものと考えられる。  しかし、仮にマハティール首相が完全に引退し、高齢となって影響力も発揮できなくなるようであれば、そのときは独自の政策路線を打ち出す可能性は十分あり、MSCについても、少なからず「目標変更」がなされる可能性は否定はできない。むしろ、2020年という長期目標を掲げているMSCであるだけに、だれが政権担当者であったとしても、途中で必要な軌道修正を行なうことは、かえって当然でもあり、望ましいともいえる。


3 レオ・モギー エネルギー・通信・郵政大臣


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 東マレーシア、カリンマンタン島のサラワク州出身の政治家でエネルギー・通信・郵政大臣のレオ・モギーも、MSCの実現には大きな役割を果たす実力者である。彼は、母体となっているサラワクの地元政党が事実上勢力を失っているにもかかわらず、内閣にサラワク出身者が必要だというバランス上から、その存在はマハティール政権に欠かせない一人だといわれている。
 現在、通信政策においては、競争の導入が中心課題で、相互接続の推進、料金政策、インターネットのプロバイダーの追加などが課題となっている。また、MSC関連では、放送・通信・コンピューターの融合法案も彼の下で起草作業が続いている。既存の利害同士の対立が必至で、その調整が必要となる作業であるだけに、容易ではない作業といえる。
 なお、筆者は1996年8月のMSC開始イベント「マルチメディア・アジア96」で、レオー・モギー大臣が司会を勤めるパネル討論で同席し、その後97年秋には、直接面会してインタビューを行なうことができた。96年の時には、事前の打合せの席では、まだ「マルチメディアなんて難しくてよくわからない」と本音を吐露していたのだが、97年に入るとMSC関連の会議などで基調講演を行なうことも増え、自らよくその本質を把握するようになったことが伺われる。とくに、97年6月にクアラルンプールで開催されたインターネットの世界大会INET97の基調講演では、用意されたスピーチを朗読した後に長時間の質疑応答を行ない、メモなしで的確な応答を行なって、各国のインターネット関係者の間からは、INETでもっとも優れたスピーカーだったという高い評価が与えられていた。
 なお、レオ・モギー大臣への筆者の単独インタビューの記録を、本報告書の付属資料として添付したので参照されたい。


4 タンスリ・オスマン MDC総裁


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 MSCを主導的に推進するMDC(マルチメディア開発公社)の初代総裁に選ばれたのが、タンスリ・オスマン・ヨップ・アブドラ氏である。オスマン氏は一次産業省を経て、ケダ州に新設された経営学部中心の国立大学UUMの学長を勤めた後、MDCのトップに抜擢された。
 MDCのトップには、当初は、MIMOSのアズマン総裁がなるとの観測もあったが、実際にはオスマン氏が選ばれた。その理由としては、彼がマハティール首相と同じケダ州の出身であるからとか、官僚時代からの実務能力を買われたからといった要因があげられている。オスマン氏は温厚な人柄で人望が厚く、教育分野への関心が高いが、情報技術分野の専門知識は備えていない。その点は、MIMOSでアズマン総裁の下でナンバー・ツーだったアリフ・ヌン氏や、エンジニア出身のガジ・イスマイル氏らがカバーしているが、MSCの推進責任者としては物足りない面があるのも事実だ。
 最近のオスマン氏は、首相に同行して海外出張などに出かけることが多く、海外からの賓客の接遇、その他重要行事などでのプレゼンテーションなど、組織の外で時間を費やすことに追われ、多忙をきわめている。首相の最優先プロジェクトの推進機関の責任者として、そのプレッシャーもかなり高いものと思われる。
 その分、後述するが、MDC自身の組織としての経営に力を注ぐ時間が不足がちで、これはMDCの課題ともなっている。


5 トゥンク・アズマン MIMOS社長


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 アズマン氏は、東北部クランタン州コタバルの出身で、マンチェスター大学工学部で電子工学を学び、自動システムで博士号を取得したエンジニアである。1986年、自らMIMOS(国立電子システム研究所)の創立を提唱し、以来マレーシアにおける電子産業、ソフト産業育成の尖兵役として、周囲の反対や冷遇を押し切って先駆的な役割を果たしてきた。
 情報技術分野では、アジアを代表するスピーカーの一人として、欧米諸国の国際会議にも頻繁に招かれている存在である。余談になるが、筆者はアズマン氏とは1995年のMIMOSによるセミナーの際に最初に会ったのだが、その後、偶然も作用して、1996年の一年間だけで合計6回も直接会うことになった。グラスゴーでの国連科学技術委員会のワークショップ、モントリオールのINET96、クアラルンプールでのマルチメディア96、シリコンバレーでのコネクト96、マニラでの英国の財団によるワークショップといった国際会議で席を列べたほか、筆者のクアラルンプール訪問による6回である。これらの出会いを通じて親しくなったアズマン氏は、MSCの可能性を説きつつ、筆者にぜひマレーシアに進出することを勧めたのである。
 MSCについては、1994年に発足した国家情報化評議会(NITC)の常任秘書として、構想の初期段階から議論をリードし、その「産婆役」としての役割を果たした。その後、MDCが発足してからは、直接MSCにかかわる機会は減ったが、その分、NITA(国家情報化計画)の策定役として、マレーシア全体の情報化の推進には依然として主要な役割を果たし、また96年秋にMIMOSが「民営化」されてからは、社長兼CEOとして、事業展開に忙しい日々を送っている。
 アズマン氏については、情報政策の分野でオスマンMDC総裁とライバル関係にあり、MSCについてはその発言力が低下しているとの観測ある。たしかにMDCの設立以降、MSCそのものの具体的な遂行について、アズマン氏が直接関与することはほとんどなくなったようだ。
 しかし、前述するように、アズマン氏はマレーシアの情報化政策全般については、依然として第一人者としての地位をもち、MDCの役員メンバーでもあって、首相や副首相への進言の機会も定期的にもっている。1985年のMIMOSの創設時には、周囲からは「マレーシア人にR&Dの研究所などできるわけがない、クレイジー」だと言われて反対されたのを押し切っって成功させた経験をもち、長年マレーシアのIT分野をリードし、海外でも評価されているアズマン氏は、MSCの今後に依然として高い影響力をもつことは否定できない。
 なお、97年後半に、テレコム・マレーシアの社長交代が噂された際に、アズマン氏の名前も下馬評には上がっていた。その後、モハメド・アリ・サイード現社長の留任が決まったことで、この人事は単なる噂に終わったが、これもアズマン氏の影響力の高さを物語るものといってよいだろう。


6 MDC(マルチメディア開発公社)


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1) 「ワンストップ・スーパーエージェンシー」
 MSCの実現を推進する唯一専任の政府機関として、マルチメディア開発公社(MDC)が、1996年10月に設立されている。MDCは当初の5年間は政府が活動資金を支援することになっており、大蔵省が100%出資しているが、5年後からは事業を行ない、その収益によって自立することになっている。
 MDCは、MSCを成功させるための「ワンストップ・スーパーエージェンシー」と位置づけられている。すなわち、通常であれば、新たに企業進出するにあたっては、事業許可の取得、雇用許可、用地の取得、環境基準の認可など、様々な事項の許可申請を個々の担当官庁宛にすべて別々に提出し、審査を受けなければならないが、MDCはこれらのしばしば煩雑な事務を統一して受けつけ、効率的な審査・認可を促進する窓口機能を果たすものとされている。

【図5-1 MDCの組織図(97年10月現在/一部推定)】


 MDCは、97年11月現在で職員が約80名の組織となっている。予算的には大蔵省の管轄となっているが、実際の事業面では首相直轄の色彩が強く、独立性の強い公社(日本流にいえば特殊法人)といえる。
 一次産業省出身のタンスリ・オスマン氏が会長を、MIMOSのナンバー・ツーから転じたアリフ・ヌン氏が専務役(Chief Operating Officer)を勤めている。
 具体的には、MSCステータスの認定審査をはじめ、フラグシップ・アプリケーションの公募と選考、研究開発補助金(MGS)の申請認可窓口などの権限をもっている。
 MDCの機能としては、以下のようなものがあげられている。
 ・国際社会にマレーシアにプロモートするマーケッター
 ・MSC環境のガイドラインと政策を立案推進
 ・MSC関連契約の一括発注窓口
 ・起業家精神を起こす金融支援機関
 ・MSCステータスの認可機関

 当初クアラルンプール市内に設置されたMDCだが、首相の強い指示もあり、97年10月からは、サイバージャヤの現地工事現場内に暫定事務所を建設し、そこに移動して業務を行なっている。ここは、現在はKL市内からは車で小1時間はかかり、鉄道やバスなどの公共交通はまったく遠く、通勤は一般職員は朝夕の専用バス1便のみ、幹部は車を使うという不便な状態である
 なお、後述するが、MDCについてはその機能、能力面で批判や懐疑的な声も聞こえている。「ワンストップ・スーパーエージェンシー」を標榜しているものの、できたばかりの寄り合い所帯であることは否定できず、大蔵省(税金)、通産省(企業認可)、入国管理事務所(ビザ)など、日本よりも縦割行政の弊害がさらに強いといわれるマレーシアの政府組織のなかにあって、今後どこまでその機能が発揮できるかが問われている。


7 NTT


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1) 企業としてもっとも深くコミット
 外国企業とマレーシア企業の双方を含めて、MSCにもっとも深くコミットしている企業を1社あげるとすれば、おそらく日本電信電話株式会社(NTT)をおいて他にないと言えるだろう。客観的にみて、NTTはその位MSCに積極的にかかわっている。
 NTTのマレーシアとのかかわりは、1990年代のはじめ、かつてマハティール首相の経済顧問を勤めたこともある大前研一氏が、NTTの技術力の支援を受けるようマハティール首相に推薦したことによって本格化したという。当初は、NTTは国際通信業務への進出を禁じられていたこともあって、研修や技術協力などが中心で、ビジネス面でのかかわりは薄かった。その後、子会社のNTTインターナショナルを経由してテレコム・マレーシアの新本社ビルのインテリジェント・ビル建設を受注したが、依然として事業的なかかわりと国際協力とのどちらつかずの状態が続いていた。
 しかしMSCの構想段階で、大前研一氏側の提案がマレーシアに受け入れられるのと並行して、NTTのMSCへの関与が本格化した。1996年、NTTにMSCのマスタープランの策定が正式に委託された。96年8月、MSCの本格始動を宣言したイベント「マルチメディア・アジア'96」には、当時の児島社長が出席し、マレーシア側の期待にこたえ、NTTのMSCへの正式進出が表明されたのである。これによって、NTTはサン・マイクロシステムズと並んで、MSCステータスの認定第一号ともいえる「パイオニア・ステータス」を取得したのである。それだけ、マレーシア側からは、NTTの存在を通して日本の多くの企業がMSCに進出してくれるものとの強い期待を抱いているともいえる。
 同96年10月には、マレーシア政府にMSCのマスタープランが提出され、承認された。さらに翌97年には、MSCの開発会社であるサイバービュー社に、NTTは外国企業として唯一出資参加が許されるなど、NTTのMSCへの関与の深さは抜きん出たものとなった。もっとも、この出資は他の日本企業の出資を得るための呼び水機能も期待されるものでもあった。
 97年1月、マハティール首相が米国西海岸へのMSC売り込みツアーの帰途日本に立ち寄った際には、マレーシア政府との共同主催により、経団連幹部会社を中心に日本の大手企業のトップ経営者を集めてMSCへの投資説明会を開催した。非公式訪問とはいえ、NTTが一国の最高指導者を招いて共同で会議を開催するというのはきわめて異例のことである。
 97年9月、それまで駐在員事務所だったNTTは現地法人化に踏み切り、その名も「NTT MSC」として、堀田明夫所長が初代社長に就任した。NTT MSCの設立披露パーティーには、当初の予定を変更してマハティール首相も臨席してお祝いのスピーチを述べるなど、NTTへのマレーシア側の期待の高さと密接な関係があらためて示されたのである。

2) グローバル戦略の重要拠点
 NTTがMSCにここまで積極的な理由はなにか。最大の要因は、同社が99年の「分割」を経て国際通信に進出するのを契機に、グローバルな通信事業会社としての地歩を固める国際戦略を推進する必要があり、とくに米国とならんで重要市場であるアジアに強力なプレゼンスを求め、その核となる拠点を求めているからといえる。
 国内の通信事業では強大な存在であるNTTも、グローバル市場では、AT&T、BT(ブリティッシュ・テレコム)、FT(フランス・テレコム)、C&W(ケーブル・アンド・ワイヤレス)など欧米の通信事業者と比較すると、はるかに遅れをとっている。アジア諸国でも、タイやインドネシアの国内電話事業などには部分的に参加しているが、収益面での貢献を見れば微々たるものである。
 通信事業は、技術力、資本力と並んで、とりわけ政治力、ブランド力が大きな力をもつビジネスである。この点、これまで本格的な海外事業を展開してこれなかったNTTは、前2者はともかく、政治力とブランド力の面で欧米の有力企業に比べて劣ることは否めない。
 そこでクローズアップされるのが、マレーシアであり、MSCなのである。一国の政府が情報化プロジェクトにここまでエネルギーを注ぎ込んでいる例は、世界広しといえども他にない。とくに、東南アジア諸国でもっとも卓越した指導力をもつ政治家の一人であるマハティール首相が自ら提唱したプロジェクトであるMSCで、同首相にNTTが主要なパートナーとして認められていることは、グローバル企業としてのNTTの存在をアピールする上で、きわめて効果的だと考えられる。現に、MSCは海外にも広く知られるプロジェクトとなり、NTTにとっては付帯するパブリシティ効果だけでも、相当のメリットがあるといえる。
 アジア各国は、通信や放送、電力、交通などの技術インフラのプロジェクト遂行において、いまもなお旧植民地宗主国の企業の影響力が相対的に色濃く残っていることは否定できない。マハティール首相が「ルック・イースト」を積極的に提唱したマレーシアといえども、底流では同じである。意思決定を左右する政府のテクノクラートのなかには、こうした欧米への留学組が重要ポストにいることが多い。
 たとえば交換機、携帯電話などの通信市場では、アルカテルやシーメンス、エリクソン、ノキア、AT&T、ノーテル、マルコーニといった欧米勢の力が伝統的に強い。情報産業では、IBM、DECなど、米国の伝統的な勢力に加え、最近は、マイクロソフト、インテル、HP、サン・マイクロシステムズ、オラクル、シスコ、3COMなどが技術力、ブランド力で他を圧している。日本勢もNEC、富士通、キヤノンなどが健闘しているが、まだまだ欧米系に遅れをとっている。パソコンでは台湾のエイサーが、独自のローカライゼーション戦略を軸に、シンガポール、マレーシアをはじめとするアジア各国で強固なシェアを保持している。
 こうしたなかで、NTTが国際戦略上、米国とならぶ2大拠点として力を入れようとしているアジア市場で、マレーシアは、市場規模は小さいものの、情報分野における政策面でのマハティール首相の指導力とMSCの存在によって大きな影響力をもち、それがそのままNTTにも有利なポジショニングを与えるといえる。

3) 現地法人 NTT MSC の設立
 NTTは、96年以来、常時40〜50名の人員をマレーシアに派遣して、MSCの推進に様々な面で積極的に関与してきた。MDCには2名、サイバービュー社に1名、それぞれ幹部級社員を出向させている他、フラグシップ・アプリケーションやインタラクティブ・マルチメディア・ネットワーク(IMN)実験への応札、その他のコンサルティングなどの業務を進めてきた。
 97年9月、マレーシア現地法人としてNTT MSCが設立され、NTTのマレーシアでの業務は新たな段階に入り、より事業性の高い存在になった。NTT MSCの主たる業務は、企業向けのSI(システム・インテグレーション)を中心とする通信関連業務で、インテリジェントビルの構築なども含まれる。顧客層は、少なくとも当面は、マレーシアに展開する日系企業で、NTT側に日本人スタッフがいることは、日系企業に対して大きな強みになると見ている。
 MSCに関連する研究開発事業も推進する予定だ。MSC地区内に、98年末までに研究開発センターを設置することが決まっている。フラグシップ・アプリケーション関連のソフト開発などを行う予定だが、詳細はまだ明らかになっていない。
 NTT MSCは、現在日本人社員が30名で、5年後には100名程度の増強する予定となっている。5年後の日本人比率は3分の1程度とし、マレーシアおよび周辺国の人材も積極登用する予定である。売上目標は公表されていない。事業費は、向こう3年で約6400万リンギット、22億円ほどが想定されているという。
 通信事業としては、日本側では、97年に国際通信専業の子会社、NTT国際ネットワークが設立され、これまで規制で認められなかった国際通信に本格的に進出することが可能となった。なお、同社の初代社長には、MSCプロジェクトを当初より担当してきた藤田聡氏が就任している。
 マレーシアでは、国内通信には携帯電話やVANサービスなどに競争が導入されているが、外資参入は一般株主としての所有は原則自由だが、戦略的な参加は運用方針によって実質的に30%までと規制されている。事業者間の相互接続は、電気通信庁によって現在ルールの策定が検討されている最中で、99年1月に実施される予定である。
 国際通信は、テレコム・マレーシア(TM)1社の独占体制が続いており、NTTは、他の欧米事業者と同様に、TMとの業務提携を進めている。
 NTTとしては、自らグローバル・ネットワークのオペレーションを担う戦略を進めており、いずれ自前の回線を保有・運用して、いわゆる1種事業に進出する計画である。
 ただし、NTTもグローバル・マーケットでの事業をすべて単独で進めるのが得策とは考えておらず、戦略的なアライアンスも積極的に進める方針である。そのなかでも、アジア市場をコアにする考えから、97年4月に、アジアの主要な電話会社およびインターネット・サービス・プロバイダーに呼びかけて、アジア・マルチメディア・フォーラム(AMF)を発足させた。AMFは当面は、国際高速回線によるマルチメディア利用実験を進める予定だが、いずれより本格的な業務提携などの拠点づくりをめざすものと考えられる。



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